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週刊こぐま通信
「室長のコラム」

これからの日本の幼児教育はどうあるべきか

第768号 2021年5月21日(金)
こぐま会代表  久野 泰可

 5月8日に行ったオンライン講演会では、時間を延長してご質問にお答えしましたが、その他にもたくさんのご意見やご質問をいただきました。当日お答えできなかった内容に、今後このコラムでもお答えしていこうと思います。講演会の最後に、私自身が経験した「東アジア、東南アジアの現地の教育関係者が、日本の幼児教育についてどのような感想を持っているか」について少しお話しさせていただきましたが、これに対していただいたご質問が次のようなものです。
  1. 海外と日本の幼児教育の違いは何か
  2. 今の日本の幼児教育に不足している点を補うにはどうすべきか
  3. 話の中にあった「これからの日本の幼児教育」について、もう少し詳しく考えを聞かせてほしい

これらについて、私の考えを少し述べさせていただきます。

私自身が過ごした大学生活は、学生運動が盛んな時期で、どんな立場にあったとしても世の中の出来事に対して疑問を感じるだけでなく、身近な大学生活における不合理なことについては、その改革運動に多くの学生が関わった時代でした。香港の雨傘運動などの報道を見ると、自分自身の学生時代を思い出します。ものごとを根源的に捉えようとした学生運動は、予想もしなかった展開をしてしまいましたが、多くの学生は自分に関わりのある身近な課題に対し、常に疑問をぶつけながら社会問題について考え続けてきました。教育系学部の私は、その当時教育に関する社会問題の一つであった、学習についていけない子どもたち、いわゆる「落ちこぼれ問題」(今ではこうした表現は好ましくないといわれていますが、当時は新聞紙上でもこの言葉が使われていましたのでそのまま使います)について、いろいろ考えていた時期でした。その結果たどり着いた結論は、「日本の幼稚園・保育園では、知育が軽視されている」ということでした。幼児期の基礎教育をしっかりやらないと、この問題は解決しないのではないかと考えました。そのために、自ら幼児教育の世界に飛び込んで、「望ましい幼児期の基礎教育」について実践を通して考え続けていこうと考え、大学の指導教官と一緒に渋谷に実験教室を立ち上げました。それが、私が幼児教育にかかわる最初の一歩でした。遊び保育を主体とする日本の幼児教育には理由があり、歴史がありますが、子どもが成長して小学校に上がっていく、その先を考えたものではなかったと思います。つまり、小学校入学時の6歳の4月は、みな同じスタートラインに立って教科教育が始まるのだから、幼児期には「知育」は必要ないと考えられていました。しかし、果たしてみな同じスタートラインなのでしょうか。実は同じスタートラインは幻想であり、家庭環境が違い、興味も違い、過ごしてきた幼児期の経験も違い・・・実態は、皆ばらばらな発達をしてきているわけです。同じスタートラインでなかったからこそ学力差が生まれ、その結果、学校の勉強についていけない子どもが大量に生み出されたのです。それを解決するためには、幼児期と小学校をつなぐ一貫した考え方で教育がなされる必要があり、そのことを私は「幼小一貫教育」と考え、教科学習の前にすべき課題を明らかにして実践に取り組んできたのです。今でこそ、幼稚園・保育園と小学校の連携をすべきだという意見が出始めましたが、私は50年も前にそのことを主張しました。幼稚園や保育園に講演に行っても、ほとんど関心を示す関係者はいませんでした。それどころか、受験教育は必要ないというばかりです。受験教育が何であるかもわからないまま、意図的な教育がすべて受験教育だと短絡的に捉えられていたのでしょう。しかし、この10年間の動きは違います。幼稚園教育要領でも「小学校とのつながりを考えて保育活動をしてください」というようになり、「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」も明らかにしています。幼児期の教育が小学校以降の教科教育の基礎になるという考え方が定着してきた証拠です。しかし、50年前に幼小一貫教育が必要だと訴えてきた私にしてみれば、余りにも遅い対応に苛立ちさえ覚えます。特に著しい発展を見せている東アジア・東南アジア諸国の取り組みを見るにつけ、将来の社会を見据えた幼児教育の改革を本当にやろうとしているのかはなはだ疑問です。
先日の講演会で、香港の保育園の園長のお話や、中国へピアジェの考え方を紹介した学者のご意見を紹介しましたが、日本の「遊び保育」が間違っているのではありません。子どもの成長にとって、「遊び」は「学び」の源です。しかし、それだけで学力の基礎が身につくわけではありません。その遊びを土台に教育の力で子どもたちの能力を引き上げなければなりません。その教育の力を日本の幼児教育は忘れてきたのです。意図的な知育を、「幼児教育の学校化」といって反対したり、受験のためだと振り向きもしてこなかったのです。そのくせ、知育が必要だと思うと、形に表しやすい「読み・書き・計算」に流れてしまうのです。幼児期の子どもの発達と小学校以降行う教科学習の関連など、考えてみたこともなかったのでしょう。これまで幼児期の教育と小学校の教科内容のつながりなど全く無視して、年長の3月に卒業すれば、その子どもたちを学校に送り続けていただけなのです。将来の子どもの発達を見据えた幼児教育の重要性は、ジェームズ・ヘックマン氏の「幼児教育の経済学」(東洋経済新報社, 2015)の本を読むまでもなく、だれもが認識していたはずです。それを幼児教育の現場で実践してこなかった関係者の怠慢は許せません。私はその原因の一つに、幼稚園や保育園で働く教諭・保育士の養成課程に大きな問題があるのではないかと思います。幼稚園・保育園では、意図的な知育を排除するような教育が行われてきたのではないかと思わざるを得ません。現場に立つ人材育成の段階で、すでに海外に後れを取っているのではないかと思います。
東アジアや東南アジア諸国の幼稚園や保育園を見学すると、そこはまさに学校です。朝から夕方まで行う課題が時間区切りで決められ、その中には、英語・音楽・数学・思考力育成・・・といった課題が明記されています。もちろんコンピューターに触れる機会も2歳児から用意されています。ただ、私が実際の授業を見学して持った違和感は、やはり教え込みの教育に流れがちだということです。だからこそ、KUNOメソッドを紹介するとその指導法に大変関心を持っていただき、コンテンツの提供の話にも発展していくのです。幼児教育に過熱気味の、中国やシンガポールの状況が決して良いと思っているわけではありません。生まれた瞬間から大量のお金を投下し、幼児期の教育を徹底して行う保護者の動きに、政府自らブレーキをかけようとしているところもあるようです。日本の幼児教育は素晴らしいと言いつつ、それだけでは国の将来を担う人材は育成できないとみている近隣諸国が多いのではないかと思います。だとすれば、これからの日本の幼児教育はどうあるべきかを考えなければなりません。伝統を守りつつ、新しい時代を生き抜く子どもたちの教育を真剣に考えなければなりません。そこには、教育の内容や方法を改革するだけでなく、幼児教育を取り巻く環境の整備もきちんとしなければなりません。緊急に必要なことは次の5つです。

  1. 子どもが生活する園の設備を教育的な視点から見直す
  2. 保育士や教諭の待遇や労働条件を改善する
  3. 研修制度を確立し、新しい幼児教育の考え方を現場に徹底する
  4. 1人の子どもの成長を記録し、そこから教育課題を探し出す
  5. 小学校の学びとのつながりを常に明確にする

こうしたことを前提に、教育内容や教育方法に関しては、専門家の意見を聞きながら最後は実践の現場で作り上げていくという仕組みを作らないといけません。実践の裏付けのない書物の寄せ集めの理論では、子どものいる現場は変わりません。
後れているとはいえ、日本の遊び保育や集団活動は評価されています。私が何度も講演に行ったベトナムでは、日本の保育活動に尊敬の念を持っています。集団活動における礼儀正しさや、子どもたちの協力関係が高く評価されているのです。
そのため、「日本式」を掲げるだけで新規の幼稚園に子どもたちが集まるということを度々、耳にしました。「遊び保育だけでは不十分」だと思いますが、遊び保育の位置づけをしっかりし、その上で意図的な教育によって子どもたちの考える力を育てていけば、無理のない系統的な学習ができるのではないかと思います。日本は海外のメソッドを取り入れることを得意としていますが、日本のメソッドを海外に輸出することも可能ではないかと思います。遊び保育をどのような学習につなげていけるか・・・そこをしっかり積み上げるためには、やはり私たちが実践している、「事物教育」 「対話教育」を深める以外に道はないと思います。

50年前に矛盾を感じ、幼児教育の世界に飛び込み、何とか幼児期の知育の在り方を確立しなければ・・・という当初の想いを実現するためにも、体力が許す限り現場にこだわり続け、そこから幼児教育を改革する姿勢を最後まで持ち続けたいと思います。

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