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週刊こぐま通信
「室長のコラム」

子どもの筆圧低下傾向に警告

第773号 2021年6月25日(金)
こぐま会代表  久野 泰可

 6月3日付のAERA dot.(アエラドット)ニュースで、子どもの「手書き離れ」が学力低下を招く恐れがあるという報道がありました。手の力が弱いため、書いてあることが判明できないようになってきたということが、小学校の現場からも報告されています。手の力の低下が筆圧の低下につながっているということです。体育の授業では鉄棒をしても、ぶら下がれる時間が減ってきているようです。日常生活の中で手を使うことが減っていることに起因しており、大変深刻な事態です。これは今に始まったことではなく、「手の教育」の重要性は昔からいわれてきたことですが、ITの進化によって子どもを取り巻く環境が変化し、ますます事態は深刻になっているように思います。

世の中が便利になりすぎた結果でしょうか。水道の蛇口をひねらなくても手をかざせば水が出るといったことに象徴されるように、便利さの反面、子どもが物事に働きかけ作業するチャンスを奪ってしまっているのです。また、教育のICT化の推進で、学校の現場にタブレットが持ち込まれ、指の操作だけでいろいろな知識を得ることができたり、昔は当たり前だった板書を写し取るという作業も、教育の非効率化の名のもとにほとんど行われなくなってきています。そのことが読解力の低下につながっているという指摘もありますので、これは見逃すことはできません。

手の教育は幼児期からやっておかなければならないということで、小学校の入試でもよく出題されます。運筆の前提として、線の模写・図形模写・欠所補完・手先の巧緻性など、さまざまに工夫された課題が出されます。普段の学習の中でも、マルを書く筆圧が弱かったり、線を引く際の力の入れ方が弱く、いくつマルを書いたのか、どこからどこに線を引いたのかがわかりにくいこともよくあります。ペットボトルの蓋を外したり止めたりする作業や、輪ゴムでカードを束ねるような作業が苦手な子どももたくさん見られます。自分の持ってきた水筒の蓋を取れなくて、助けを求められることもたびたびあります。

鉛筆で文字を書く学習がスタートするのは小学校1年生からですので、それまでに鉛筆の持ち方も含め「手の教育」はしっかりとやっておかなければなりません。それこそが「教科前基礎教育」の大事な中身の一つになるはずです。こぐま会では、筆圧の問題や手先の巧緻性といった技術的な問題だけでなく、外の世界に働きかける手段としての「手の教育」は、あらゆる角度から大事にしなければならないと考えています。

ところで、私は今から17年ほど前に「手の教育について」という冊子を作りました。その冒頭の「はじめに」の部分をここに掲載させていただきます。筆圧や手先の巧緻性の重要さを認識しつつ、それだけではない「手の教育」の意味を考察したものです。それは、事物に働きかけることがなぜ大切かを訴えるものでもあります。


幼児期からの基礎教育「手の教育について」
2004年7月
こぐま会室長 久野泰可

はじめに

もう何年も前から「手」の教育の重要性が言われてきています。小学生になっても、ナイフで鉛筆を削れない、包丁でリンゴの皮がむけない―といった例が取り上げられ、意図的な「手」の教育の必要性が叫ばれてきました。また、最近の小学校入試でも「手先の巧緻性」に関する出題が増えています。箸や紐を使った作業がその典型ですが、そのほかにもハサミ・風呂敷・洗濯ばさみ、クリップといった日常生活に密着した素材を用いて、いろいろな角度から出題されています。

確かに、子どもたちを取り巻く生活状況は、限りなく便利さが追求されて変化し、その分手を使う機会が少なくなってきています。テレビゲームに象徴される機械化されたおもちゃは、手で操作することは増えても、そのほとんどが「ボタン」を押すことに集中し、道具を使っておもちゃ自体を作ることはほとんどなくなっています。生活用具も自動化が進み、例えば蛇口の下に手を差し出すと水が自動的に出てくる装置などは、手の働きを不必要とした最たるものかもしれません。こうした便利さがこれからもますます追求されていくとすると、子どもたちのまわりにも「手」を使わなくさせる状況が作られていくことは間違いありません。蛇口をひねることも必要でなくなるとすれば、人間の手はますます退化していくばかりです。以前、小学校の入試で、ボルトとナットを結合させる課題が出たことがありますが、これなどは、こうした生活文化に対する警鐘の意味もあったのかもしれません。
さて、入試問題を見ればわかるとおり、「手の教育」の中味は生活に根差した「技術」が先行する形で進んできています。しかし、それだけでよいのでしょうか。私は、「手の教育」はもっと広い意味で考えるべきであるし、認識の成長との関係を避けて、技術だけが先行する手の教育では不十分だと考えています。人間にとって「手」の持つ意味は、いろいろな角度から論じられています。手と脳の働きを医学的に分析したり、手と認識の関係を哲学的に洞察した著作も見られます。しかし、私たちはもう一つ別な視点、つまり教育方法上の問題として、「手」の役割をもっと積極的に考えるべきだと思います。手は、人間が外界に働きかける大変重要な手段です。その働きかけによって物理的な特性を知り、ものごとの関係づけを学んでいきます。つまり、働きかけることによって、ものごとの認識が深まっていくのです。しかも、幼児期の教育にとって重要な課題である「内面化」は、ものごとへの働きかけによって、はじめて可能になっていくのです。私たちが事物教育を主張する背景には、手が果たす役割、つまりものごとへの働きかけと試行錯誤のチャンスを確保したいという考え方があるからです。

最近の小学校の授業では、なぜ事物を使った教育や実験が少なくなってしまったのでしょうか。その一つの原因として考えられるのは、視聴覚教材の充実という点です。教育現場にそうした機材を持ち込むことによって、実際に自分で体験しなくても映像を使って疑似体験ができ、認識も育つと考えたのでしょうか。生活経験が豊富な子どもにとっては、映像はある一定の意味を持つかもしれませんが、まだ生活経験の少ない幼児にとっては、何よりも事物に触れる機会をもっと増やさなくてはなりません。映像への過信は、ペーパー教材への過信へとつながっています。幼児の教材も、小学生と同様にペーパー教材で充分だと考え、2歳ごろからペーパーによる訓練を繰り返すといった、ゆがんだ教育が横行しています。

「手の教育」を、手先の巧緻性といった技術論にだけ閉じ込めてしまわないで、子どもの認識の発達を促す大切な教育方法であることを、私たちは忘れてはなりません。(以下続く)

17年も前に書いた文章ですから、子どもを取り巻く環境も変わっています。その当時は、タブレットなどはまだ普及していませんでしたし、文章を読むと、テレビゲームがはやっていたのだということもわかります。しかし、基本的なことは何も変わっていません。筆圧の低下問題もきっとこの当時からあったことだと思います。しかし、教育現場がこうした問題に真摯に向き合わなかった結果が、今回のような報道につながったのでしょう。今からでも遅くありません。人間の持つ能力を退化させるような環境が生まれているとしたら、それを乗り越える手立てを工夫していかなければなりません。それは「筆圧」だけの問題ではないように思います。


こぐま会代表 久野泰可 オンライン講演会のご案内
「 幼児期の基礎教育と小学校受験 」
2021年6月27日(日) 10:00~11:00 LIVE配信!(無料)
【講演内容】
1. 最近の小学校受験の傾向
2. コロナ禍の入試で変化したこと・しなかったこと
3. なぜ、ペーパートレーニングだけではだめなのか
4. 受験のための学びが、将来の学習の基礎づくりになるように

※ご視聴にはお申し込みが必要です
※後日録画配信はありません

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