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週刊こぐま通信
「室長のコラム」

再び「教えない授業」を読んで

第546号 2016/9/16(Fri)
こぐま会代表  久野 泰可

 2014年11月14日・15日の日経新聞電子版に、「都立両国、復活の舞台裏」が報告されました。その英語授業を主導した先生が書かれた本『なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか』(日経BP社)が出版されました。私も早速取りよせ、読みました。以前のコラム(「知育を軽視する日本の幼児教育が危ない」第29号)でもこの報道に触れ、私の想いを書きました。その文章をあらためて読みかえしてみましたが、今でもその考えは変わっていません。コラムの最後に、私は次のように書きました。

 特に今回強く感じたのは、「教えない教育」を徹底することがいかに大変かということです。逆風の中で、信念を貫いた「教えない教育」の実践が、実は大学入試でも力を発揮することによって注目されているということは、あまりにも逆説的でユニークなものです。「教えない教育」というよりも、「自ら考える教育」と言った方が良いのかもしれません。我々教育現場の人間にとっては、それが幼児であろうと、高校生であろうと、授業方法の視点で考えれば同じことです。高校生に「教えない授業」は成り立っても、幼児期の子どもに「教えない授業」が成り立たない、ということはありません。私たちが授業方法として守り続けてきた「事物教育」こそ、「教えない教育」の原型だと思います。言葉を交わして他者と意見交換し、理解を深めていくことは難しい年齢ではありますが、事物に触れ、事物を操作することによってものごとの関係を自ら発見していく作業は、「教えない授業」そのものです。そうした意味で、幼児であればある程、ものごとに触れ、自ら認識を獲得していく試行錯誤の時間を大切にしてあげなくてはなりません。

私が、最近のコラム543号で書いた文章、「すべての教師が幼児教育を経験したら・・・」もその想いは同じです。何を学ぶかではなく、「どのようにして」学ぶかがこれからの教育論議の中心になっていくことでしょう。アクティブ・ラーニングと総称される教育方法についても、いろいろ論議されていくはずです。しかし、「黒板と教科書とノートがあれば教育できる」ということが、そもそも最初から不可能な幼児期の教育に40年以上も携わってきた私にとっては、「何をいまさら」という想いであることは確かです。幼児期の「考える力」を育てる教育は、アクティブ・ラーニングしか方法はありません。「教えない授業が学力を伸ばす」と題した今回の本も、大学受験で良い成果を収めたという現実的な成果があるため、皆が注目するのだと思います。しかし、受験の結果だけでなく、これからの社会で有能な人材として活躍するためには、「自ら学ぶ」経験がどうしても必要です。多くの国、そして多くの人々が「教育という営みは、どれだけ多くの知識を与えるか」と信じてやまなかった時代の呪縛から解放されて、人間にとって最も根源的な「考える力」「新しい価値を創造する力」をどう身につけるのかという観点で教育を考え始めれば、これまでの「知識をどれだけ獲得させるか」という教育ではダメだということは、だれもが納得できるはずです。しかし、どのようにして・・・という具体的な方法になると、そこに大きな壁があるのも事実です。

「事物教育」と「対話教育」の理念を掲げて、幼児期の基礎教育を実践してきたこぐま会の指導が、小学校受験でも大きな成果を上げているという事実を見ていただければ、小学校側が考える「学力観」が変化していることは明らかです。時代の変化の中で、小学校受験の内容や方法が変わらざるを得ないのは、当然なことです。その変化をどう読み取るか。ペーパー主義の教え込み教育が受験教育においてもすでに破たんしていることは、こうした教育を取り巻く状況を見れば、疑う余地はありません。

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