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週刊こぐま通信
「知育を軽視する日本の幼児教育が危ない」

教えない授業

第29号 2014/11/18(Tue)
こぐま会代表  久野 泰可
 11月15・16日の日経新聞電子版に「都立両国、復活の舞台裏」(15日(上)16日(下))と題した記事が掲載されていました。都立両国高校が、都立高トップの国公立大学合格者を出すにいたった取り組みを2回にわたって報告しています。幼児教育に携わる私たちとは対象年齢は違いますが、従来の「教え込みの教育法」から、「子ども主体の教育」へ現場から変えていく取り組みとして、大変興味深く読みました。英語教育のみならず、他教科においても「教えない教育」を徹底し、生徒が主体的に取り組む授業を報告しています。しかも、理想論ではなく、実際の大学入試においても力を発揮しているところが高く評価され、注目されているのです。新しい発想の教育は、学校群制度によって合格実績が急落した都立高を復活させるべく取り組んだ都教委の「進学指導重点校」政策や、その中の一つでもある「中高一貫教育」の取り組み等によって変化した教育環境によって可能になった側面もあるのでしょう。また、知識偏重から思考力を要求するようになった大学入試そのものの変化によって、昔から行われてきた詰め込み教育ではなく、生徒主体の「自ら考える力」の育成が、結果として大学入試においても力を発揮したということでしょうか。

40年間も小学校入試に取り組み、また現場指導にこだわり続けてきた私は、この2回の記事を読んで、あらためて次のようなことを感じました。

1. やはり教育は、現場での実践活動からしか変わらない
2. しかし、どんなに優れた教育も、「入試結果」のように何らかの眼に見える形で成果を示さない限り評価されない

幼児教育の変革をめざして飛び込んだこの世界。自らが一保育者として関わらない限り新しい教育法は生み出せないと考え、以来42年間教育の現場に張り付いてきた自らの取り組みは間違っていなかったということを確認できました。そして、幼児期の基礎教育といえども、入試で力を発揮できなければ意味がありません。基礎教育「KUNOメソッド」と受験指導「こぐま会」の2つのブランドを融合させようと悪戦苦闘してきた私自身の実践も、間違っていなかったことを確認できました。

特に今回強く感じたのは、「教えない教育」を徹底することがいかに大変かということです。逆風の中で、信念を貫いた「教えない教育」の実践が、実は大学入試でも力を発揮することによって注目されているということは、あまりにも逆説的でユニークなものです。「教えない教育」というよりも、「自ら考える教育」と言った方が良いのかもしれません。我々教育現場の人間にとっては、それが幼児であろうと、高校生であろうと、授業方法の視点で考えれば同じことです。高校生に「教えない授業」は成り立っても、幼児期の子どもに「教えない授業」が成り立たない、ということはありません。私たちが授業方法として守り続けてきた「事物教育」こそ、「教えない教育」の原型だと思います。言葉を交わして他者と意見交換し、理解を深めていくことは難しい年齢ではありますが、事物に触れ、事物を操作することによってものごとの関係を自ら発見していく作業は、「教えない授業」そのものです。そうした意味で、幼児であればある程、ものごとに触れ、自ら認識を獲得していく試行錯誤の時間を大切にしてあげなくてはなりません。

知識を与えることが教育だとすれば、教え込みの教育が一番手っ取り早いことは明らかです。しかし、幼児期の基礎教育であればある程、自ら考え、自ら答えを導き出すことを大切にしなければ、将来の学習へのレディネスは形成されません。しかも、新しい教育活動・新しいメソッドは、結果を出さなければ、だれも振り向いてはくれないという教育界の厳しい現実があるということも事実です。それに立ち向かうためには、強い信念が必要だということも、今回の記事を読んで再確認できたように思います。

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