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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.53「算数を得意にするマクロ環境 考察編(2)」

2011年4月22日(金)
こぐま会小学部長 渋谷 充
「「文章題を解く」という視点からの自然成長の影響」

 以前の問題提起を受けて、「人間の自然成長に含まれる算数力とはどのようなものか。」ということを考えます。また、この議論は文章題についてのものなので言語を中心に論じたいと思います。

そもそも人間が生まれてさまざまな認知活動をする中で、意味をともなっての言語の習得には非常に時間がかかります。それは、五感をもって得た情報に客観性や相対性の規準を与える操作なのですべてに定義づけできるわけでもないですし、時間がかかるのも納得できます。記号や数字もそうです。おそらくほとんどの場合、子どもが外見で記号や数字を使いこなしているように見えるのは言語よりはずっと後でしょう。

ただし、それらを認知対象となる現象への客観的定義づけの道具として考えた場合、記号や数字と比べ、言語は果たして相応の客観性を確保できているでしょうか。周知の事実ではありますが、自然科学と人文科学は学問としての壁を歴史的に構築してきました。それぞれの境界付近ではどちらの特性をも有する学問もありますが、結局細かに分けるほどどちらかに偏るものです。論点はずれましたが、言語の利用というのは、無論人間の所作によるものであり、人文学がそうであるように人間が自然の一部としての位置づけを回避しなければならない理由の主役だといっても良いでしょう。言語はそれそのものの記号としての客観的役割と、人間が利用するという主観的役割の二面性をバランスよく有しているのです。バランスのよさとは、単語によってまたその単語の利用場面によって姿形を変えて、視覚から飛び込む自然法則の情報とは一線を画した動向を見せ、私たちの認知活動に影響を及ぼすということを意味します。私自身が言語による伝達の曖昧さを恐れずに言えば、自然科学はより客観的にあるべきです。そして自然の物理法則を理解しやすくするための客観的基準となる記号は、状態や現象と同値であってほしいものです。ということは、この自然科学の現象を理解することと、言語の持っている特徴とは相反する側面が多分に存在することになります。

ところで、算数の文章題は、もっと言えば数学の各種記号自体「言語」による定義づけがなされています。ならば、言語の中でもより客観性の高い言語の選定や、より客観性の確保しやすい場面の設定が不可欠です。現在の文章題や記号はどうでしょう。なるほどこれまでの学者の英知もあり、私は少なくとも最低限の客観性は確保できていると感心します。これだけ教育の現場に立っていて、言語のあいまいさによる不具合は年に数回程度であるということを考えれば、さほど心配になることはないといえます。

ここに初めて、その文章題を見る側の言語利用のあり方という観点が浮上します。たかだか文章題を解けるようにするというテーマではありますが、「大人になるとなぜか解ける文章題」という現実を理解せず、やみくもに大量の文章題特訓を子どもにさせるのは合点がいきません。よってただ単に「大人だからわかる」と片付けるのではなく、その自然成長の中身を考えなければならないはずです。人間が大人になるうえでの自然成長の内容まで論じる時、上記のような言語と自然科学の関係は非常に大切です。前々回のコラム(vol50.「算数を得意にするマクロ環境 考察編(1)」)にあった、文章題を解く場面での生徒の文章題の「見え方」はこのような言語の持っている特徴に起因していることが多いようです。文章題の「見え方」というのは、決して生徒個人の中で意識しておこなわれているものではありません。よって、「見え方」を習得することに終始するあまり、文章題が解けるようになる可逆的方法論の一つとして特訓するのはいささか疑問が残ります。より正しい理解としては、生徒によって言語の利用法に偏りがあるために、文章題が求める要請に答えられやすい状態と、答えられにくい状態があるということです。

今回は漠然とした話に終始しました。次回は、以前のコラムにあった例と今回の議論をもって改めて「見え方の正体」として具体的に考えます。

追記
私は常にその言語のもつ曖昧さと数学がそもそも持つ穿った見方とのはざまで、空気を読みながら事を進めることが多いです。「頭の体操」などのパズル系問題は空気を読まず、この辺の微妙な部分を利用していることが多いようです。お子さまが仮に文章の曖昧さゆえに文章題を解くことができないような事態があるのならば(特に不能という解答にいたっている場合)、それはお子さまが正解だとしてよろしいと思います。少なくとも数学的にわからなかったということにはなりません。
また、文章中あえて「伝達の曖昧さを恐れずに」といれたのは、つきつめれば不確定で不完全である自然科学の理論体系を鑑みたとしても、子どもにとっては客観的に「真実」という形のあるもの(少なくとも直感的にそう見えるもの)を連続的に与えることが大切だという持論からのものです。

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