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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.54「算数を得意にするマクロ環境 ~教育観特別番外編~『「まちがってない探し」の国語的評価』」

2011年4月29日(金)
こぐま会小学部長 渋谷 充
 花粉との戯れ?も落ち着いてきて、ようやく春の陽気を楽しめる時期になってきました。遅ればせながら春眠暁を覚えず、戦々恐々とした指導の現場の1年を、深い眠りと共に振り返りながら思考の整理をする毎日です。こんなときこそ徒然なるままに、かねてから話したいと思っていた話題の一つを紹介までに。「算数を得意にするマクロ環境」と題しながら、今回はある題材をもとに国語的側面から評価したいと思います。次回は同じ題材を算数的側面から評価いたしますので、その違いなどに注目して楽しんでいただけたらと思います。

「まちがい探し」なるゲームは誰しも知っている楽しいゲームですが、私が考える「まちがってない探し」も楽しいはずです。それは決して真新しくもなく、私が発案したわけでもない。皆日常でおこなっている思考ですからルールはいたって簡単です。
早速下の2枚の写真をご覧ください。左はある商店街の現在の様子の写真。右は同じ商店街の大正時代の様子を写したもの。ありがちではありますが、同じ場所の今昔を写真で比較したものです。


どうでしょう。ここに今から話すルールなどは余計で、見るだけでも楽しいと思えるのは私だけでしょうか。しばらく話しかけられもせず眺めていたい気持ちになります。
しかしながら本題に戻し、「まちがってない探し」ルールはこうです。「2つの写真を見比べ、変わっていない所をあげなさい。」
通常の「まちがい探し」が両者の違いを見つけるゲームであるのに対して、この「まちがってない探し」は変化していないところを見つけるというものです。1分ほど考えてみてください。

まず、両者において幾何学的造形は明らかに違うところだらけです。せいぜい電柱が疑わしい程度で、ほとんどすべての概観は変貌しきっています。結論から申し上げると、答えは一つに定まりません。例えば「道路と建物の位置関係」でも構いません。だまされた感が残るとは思いますが、このゲームの目的は「変わっていないところ」を幾何学的な視点を超えて定義するところにあります。瞬発的に視覚に飛び込んでくる情報にさらに知識や経験などを織り交ぜた複合情報へと作り変えることに意味があるのです。そこにはもちろん人それぞれの思考があって当然で、決まった解答などありえないはずです。それどころか皆で集まってこのゲームをすれば、解答などなくとも各々がたくさんの視点を享受したり、発見できることに喜びを感じるはずです。写真がもつ第一義的な情報は、人を介し有機的な情報として生まれ変わり、また人にとって新たな情報環境を提供してくれることになります。この「まちがってない探し」はゲーム性豊かなので、教育の現場でも知らず知らずのうちに行っているかもしれません。

ここで一つ疑問が浮かびます。もしこのゲームをたくさんの人に対して行ってみた場合、本当に多種多様といえる解答が出てくるのでしょうか。覆すようですが、私は否だと断言できます。それは、一見たくさんの解答が出てきているような印象を受けながら、決して平均的な多様性をもたないという意味です。数点の類似した見方が大部分を占め、ほぼ解答といっても過言ではない視点がでてくると確信できます。
一番わかりやすいところで私の視点を一つだけ紹介します。2つの写真のお店に注目してください。現在の写真にある「NAGAYA」さんと大正時代の「長屋」さんが同じ場所で営業していますね。おそらく同じ「長屋」さんという一族の方が経営されている老舗でしょう(現在が本屋さんであるのに対して、大正時代は乾物屋さんであることも非常に興味深いですが論点がずれるので割愛します。また、ただの長屋(集合住宅)で乾物店を営んでいた名残という可能性も否めませんが、あくまでも視点の一つとして。)。この「NAGAYA」さんと「長屋さん」は「変わってないもの」として考えることにします。このような視点でよいのならと、さまざまな回答も期待できますし、共感していただける方も多くいらっしゃると思っています。このように、人を介した有機的概念を多数集め、似ている答えをまとめていったとしましょう。やはり多くの場合大きな偏りが生じるのではないでしょうか。なぜそこに偏りが生じるかも問題ではありますが、少なくともその偏りが有機的概念の共感や共有の統計的な姿であるといえます。

さて、この有機的概念の共感や共有は何を意味するのでしょうか。意味づけには、時・場面によってたくさんの方向性が考えられます。しかしひとたびこのような情報の共感・共有を人間にとって必要不可欠なものだととらえ、後世にも体系的に伝えたいと考えはじめれば、ここに国語的教育観の芽生えを感じざるを得ません。視点は一義的に決定付けられるものではなく、ましてや強要されるべきものではありませんが、共感・共有された視点は連鎖的に人間の理性を巧みに制御するようになります。個々の点在している存在につながりを持たせる力が働き始めます。一体化ともいうべきこの人間の思考活動は、おこがましくも必要不可欠である国語教育の二面性を余すことなく表現できていると感じます。上の2枚の写真のような問題提起でも、写真がまさに言語の役割を果たし、見た人々の一体化の媒介となります。ある1人の子どもにこの質問をしたところ「空がある」と答えました。左の写真にある、水色で形の定まった平面という理解ではなく、写真を飛び越えた概念を幼い子供の範囲で最低限提示してくれたと思っています。国語教育の中でも、言語はその一端を司りながら一義的で辞書的な言語利用には飽き足らず、有機的な広がりを持たせられながら存在しているのです。国語教育を考える時には非常に大切な視点です。漢字を覚える、辞書で意味を調べる、読書をする、すべて大切なことです。しかし、それらがすべて単発的、閉鎖的であってはいけません。人間の自然な活動の、有機的につながりを持った環境の中にこそ、国語的な学びの機会を探るべきです。

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