ページ内を移動するためのリンクです
MENU
ここから本文です
週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.50「算数を得意にするマクロ環境 考察編(1)」

2011年4月1日(金)
こぐま会小学部長 渋谷 充
今回は、前回までの問題提起を受けて

1. 日本語の習熟度と文章題を解答することの関係性はどのようになっているのか。

に対しての一定の回答になりうる議論をしたいと思います。

結論から申し上げれば、ほとんど関係ありません。日本語の習熟度の定義は確かにあいまいではありますが、このような初期段階の文章題ではより大きな影響を及ぼしているものがあります。それは、算数特性の強い子どもとそうでない子どもの「文章題の読み方」の違いです。「文章題の読み方」というのは「文章題の見え方」と置き換えても良いでしょう。
どのような違いがあるのか、ある文章題を題材に、算数が苦手な子と得意な子の「見え方」を紹介します。

問題:
みかんが なんこか ありました。かぞくで 24こ たべて、おとなりに 12こ あげたので、 のこりが 32こに なりました。 みかんは はじめ なんこ ありましたか。
まずは苦手な子の「見え方」から紹介します。「 」内はおよその心の動きですが、無視していただいてもかまいません。

【算数が苦手】
問題:
「文章題いやだなー」「足し算かなー」「引き算かなー」
みかんが なんこか ありました。かぞくで・・・(「すごく多いのであんまりなじみがないなあ」)こ たべて、おとなりに・・・(「さっきのかずよりすくないかず」)こ あげたので、のこりが・・・(「もうなんだかよくわからない」)こに なりました。みかんは はじめ なんこ ありましたか。
「さて、とりあえず出てきた数字たしてみようか」
このような具合です。まず大切なのは、文章題の最も重要である数字の部分が自分の生活になじみのないただの記号であることです。数字の大小も非常に漠然としていて、その漠然とした状態を許容してしまう日常になっています。また、物語として楽しめるような文章でもないので、国語がいくら好きでもあまり解答力は高まりません。

【算数が得意】
問題:
みかん。24こ。かぞくがたべた。12こ。あげた。・・・で32このこった。
「もともとは32こより12こぶんと24こぶんおおかったんだな。」
苦手な子と比べ圧倒的に違うのは数字の大小や移動への注目度が高いところです。それ以外の文章は、まるでその数字の修飾語のような存在です。中学のときに英語の文法構造の説明を受けたときの印象に似ています。この「見え方」により、計算にとりかかる時間は大幅に少なくなります。およそ問題文を読み終わったと同時(または読み終わった時点では答えまで出ている)になります。
数字そのものに対する馴染みにも大きな差があります。24個というのはある程度、数を意識した生活になっていない限り、ただのたし算やひき算の道具になりさがってしまいます。算数が得意な子の場合、数字がそれまでの生活に大きく影響力をもってきたので、単なる24という無機質な数字にも何らかの思いがあり、有機的に頭脳に刻み込まれています。算数が苦手な子に見られたような「さて、とりあえず・・・」のような気だるい現象は起きえません。さらに付け加えると、このような「見え方」をする子どもは、この程度の問題であれば答えを出すこと自体二の次なので大きな余裕があります。ですから、この後多少問題が発展的になろうが、複雑化しようが涼しい顔で正解を出します。

改めて2つの「見え方」をおさらいしましょう。
かたや文章題の本文を忘れ、そつなく読み終えることだけに終始した「見え方」と、数的嗅覚に優れ、「要するに」を追求するために臨戦態勢にある(結果論的に)合理的な「見え方」。

文章題は解けたほうがいいという立場に立てば、もちろん後者を選択するでしょう。しかし単純明快に、算数が苦手な子には後者のような合理的な文章題の読み方を特訓すればよいのではないかという議論および実践にはいささか疑問が残ります。そんな単純な問題であれば、これまでこのテーマが永遠のものにはなりえないということだけで証明は十分ですが、そもそもこの得意な子の合理的な「見え方」は前述したように結果論的です。結果的に苦手な子に比べ合理的だというだけで、その源はそれまでの数字とともに過ごした生活の集大成です。よって、この合理的方法論を特訓したところで部分的な特訓となり、思考が画一的になってしまうという短所のほうが目立つようになります。
私はいつも「算数は自然である。自然に教育すれば算数は得意になる。」といい続けていますが、今回の前者のような文章題の「見え方」をあえて「ぎこちない見え方」とするならば、その「ぎこちなさ」も不自然な生活の集大成になっていることがほとんどです。

何が自然な教育なのか。

では具体的にどのような方法で文章題、果ては算数を得意な子どもに育てるのか。

このような問いが耳をふさいでいても聞こえてきそうです。
子どもが、「おこられないように・・・」「いわれたから・・・」「きげんをうかがって・・・」などというような心理に追い込まれ、すべての本文を忘れた行動にでるような不自然な生活になっていないでしょうか。お気づきのとおり、大人社会でも「額面どおりの仕事」「指示待ち族」「歩くビジネス書」のように社会人のあり方として問題になっているような内容です。今一度足元の生活を見直してみましょう。空腹で目の前に川があれば、魚を取ってもらうのではなく、ましてやとり方を教えたり、教わったりするのではなく、まず自分で取りにいく工夫をするのが自然です。その行為を阻害する過度なしつけや過干渉それそのものをなくすことが唯一の方法としてよいでしょう。

追記
ちなみに文章題は現在あるような ももが 3こと りんごが 5こ あります。くだものは あわせて いくつでしょう。
のような形は、文章題としての体をなしている意味がなく、これなら文章題の指導をする・しないによる算数力の差は出ないと思います。
レベルを変えずに、それでもあえて文章題で生徒を指導したいというならば

ももと りんごを あわせて 8こ かいます。ももの ほうが すきなので、 ももを おおく かうとしたら
ももと りんごを それぞれ いくつずつ かいますか。
というぐらいでなければ、いわゆる「文章題」の本質が整わないと思いますが・・・
何を言いたいか伝われば幸いです。

PAGE TOP