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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.40「小中高の授業と幼児教育のつながり~小5算数の授業から~」

2011年1月14日(金)
学習塾 プラウダス講師 石原弘喜
次は中学受験で出題される小5算数の問題です。

あきら君は家を出て学校に向かいましたが、10分歩いたところで忘れものに気づいたので、家に引きかえしました。一方、あきら君が家を出てから18分後に、お母さんは忘れ物を持って自転車で追いかけました。あきら君の歩く速さを毎分60m、お母さんの自転車の速さを毎分250mとすると、お母さんが家を出るとき、あきら君は家から何mのところにいましたか。

あきらくんが忘れ物に気付いたのは、家から60×10=600 (m) のところです。お母さんが家を出るのは18-10=8(分後)ですので、その時にあきら君は家から600-60×8=120 (m)のところにいます。これが正解までの手順です。

この手の問題は、「とんでもない答え」に出くわすことがあります。単位を間違えて120kmとなったり、自転車の速さ250mに10+18=28分をかけて7000mという答えになることもあります。時に、それ以上の「とんでもない答え」になることも珍しくありません。

これを単なる勉強不足や実力不足として片付けてしまうことはできません。ひとつの問題が不正解だったという事実以上に、根底には重要な問題が横たわっているからです。

こういった答えを出す生徒に共通しているのは勉強に対する姿勢です。自分の解いた問題は、正解か不正解か。関心のあるのはその一点です。どんな間違い方をしたのかにはほとんど興味を示しません。正解か不正解かがわかれば問題に対してそれ以上の興味を持たないのです。彼らにとって、不正解は「正解ではないもの」であり、正解は「マルをもらえるもの」です。勉強が正解を出すための「流れ作業」となっています。

それは「勉強の作業化」と呼べるかもしれません。勉強が作業化するようになると、相当性と妥当性の判断が極端に欠けてしまいます。算数の問題として答えという数字が合っているかどうかが重要であり、常識的視点から答えがふさわしいかどうかを判断することはありません。算数の問題以前に、自分の出した数字はそもそも現実的にありうるのだろうか、答えとしてふさわしいのだろうか。そういった相当性と妥当性からの検証する視点を持たないのです。作業の結果導いた答えを平然と出して、正解ならマル、不正解ならハズレという流れ作業の一貫として勉強が組み込まれています。

わずか数十分で人間が7kmも歩くことができるかどうか。それが常識的にあり得ないことは少し考えればすぐにわかることです。しかし、それが勉強となるとわからなくなってしまうのは、ある種の子どもにとって勉強が「特別な作業」になってしまっているからです。

次回につづく...

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