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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.41「<かさじぞう>とは何か?」

2011年1月21日(金)
こぐま会教務部長
幼小一貫ひまわりクラブ国語担当
山下淳二
 ひまわりクラブ12月の国語の授業では、「かさじぞう」の読解を行いました。でも、教科書に載っている「かさこじぞう」(文 岩崎京子)ではなく、世界文化社から出ている「ふるさとの民話」シリーズの中の一冊を使いました。文は辺見じゅん(歌人)、絵は丸木俊で、壇ふみの語りがCDになっています。
かさじぞうを授業で行うのは、二十数年ぶりのことです。前回の時は、日本経済がちょうどバブルの頃で「たいそうびんぼうで、その日その日をやっとくらしておりました。」というくだりを今を生きる子どもたちにどうわからせたらよいのか、悩んだ記憶があります。私自身は、赤羽末吉の絵筆による絵本「かさじぞう」(福音館)の静謐さが好きでしたが、グレーと青を基調とした水墨画のような世界が子どもたちの目にはどう映るのか、いろいろと疑問をもっていました。今回も作品の内容ではなく、その語り口をCDで聞けば日本語のリズムや方言の面白さに気付くかもしれない、といった軽い気持ちで臨んだのです。

 「米もち ひとうす ペッタリコ。」
 かけ声あげて、きねで もちを
 つく まねをする。
 「はあ、ペッタリコ。」
 ばさまも、ええ声で、ペッタラ
 ペッタラと もちをこねる まねをした。
 米もち ひとうす できあがったと。

この語りをCDにかけると、最初は神妙に聞いていた子どもたちも途中でクスクスと笑い始めました。でも、もちつきのまねは一度だけではないのです。米もちのつぎはあわもち、それから、きびもち・ひえもち・とうもろこしもち、とえんえん続くのです。「ペッタリコ」という言葉をなんども聞いていると少し変な気持ちになってきました。「これって、本当にかさじぞうなの?」、リズムが面白いだけでなく、何か気持ちが愉快になってくるのです。
その後、おじいさん役、おばあさん役、地の文を読む人、というように配役を決め、この作品を劇遊び風に朗読してみました。すると、心の中に湧いた疑問がはっきりしてきました。子どもたちは、本当に楽しそうに音読するし、聞いている子どもも笑顔になっているのです。もしかすると、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない。かさじぞうのポイントは、じさまが雪の中で地蔵様にかさをかぶせる場面と、それから最後になって地蔵様がじさまの家におもちやぜにコを持ってくる場面だと勝手に思い込んでいましたが、本当はこのもちつきのまねごとの場面が、このお話の中心ではないのかと。そして、今までは、じさまが雪にぬれて寒そうにしている地蔵様にかさこをかぶせてやるという優しい行為に対して、そのお返しとして地蔵様は<よいもの>をいっぱい届けたというように単純に捉えていたけれど、実際はそうではなく、もちこなしの年越しになってもくよくよしないでもちつきのまねごとを楽しむことができた二人だからこそ、お礼をしたのではないかと。そのことを証明するかのように、この作品では地蔵さまの掛け声の中に、「米もち、ひとうす、ペッタリコ。」の声が入っているのです。地蔵さまは、二人の年越しの様子をしっかりと見守っていたのです。
このお話の一番最後に「それで いいちさけた」という語り納めの言葉がありますが、これは、「一生栄えた」という言葉が変化したものらしいのです。どの民話もこのように最後は「二人は幸せになった」という言葉で結ばれていますが、これも宝物やお金をいっぱい貰ったから幸せになったというように短絡的に解釈するのではなく、もともとじさまとばさまは、貧乏だけれどもいつもにこにこと楽しい生活を送っていたと考えるのが正しいような気がします、だってもちつきのまねごとを5回もすることのできる二人なんですから。
この原稿を書くにあたって、かさじぞうに関するいろいろな資料を見たのですが、ちゃんと書いてありました。絵本の後書きで岩崎京子は次のように記しています。

わたしは、<清福>ということばは、このふたりの姿だと思いました。じいさまとばあさまは、地蔵さまにお正月じたくをいろいろもらいますが、そのたまものにまさるしあわせを、もっていたのだということを、よみとってほしいと思います。

(国語の教師、失格かな?)

昨年の暮れ、フジテレビで「私たちの時代」というドキュメンタリーを放映していました。奥能登にある門前高校の女子ソフトボール部員たちの日常を三年間にわたって記録したものです。高校生の日常生活を丹念に追っていこうという意図で始まったと思うのですが、実際には能登の大地震があったり、インターハイの県予選決勝での逆転サヨナラ勝ちといった劇的なことが起こり、ドキュメントというよりも、殆ど<ドラマ>に近いような作品になっていました。高校生だけでなく、ソフトボール部の監督(先生)やコーチの生きかたも映し出されていて、教育や社会のあり方というものについていろいろと考えさせられました。とても感動的な作品になっていて、いつか感じたことや考えたことをまとめてみたいと思っていますが、今回はもう一つ印象に残ったことを話していきます。それは、この作品では大事な場面になるときまって赤い布切れをつけたお地蔵様が映ることです。最初は、「あれ?」といった感じで見ていましたが、たびたび挿入されるものですから、いやでも「かさじぞう」を思い起こさずにはいられませんでした。地震で町が崩壊した後、ソフトボール部の女の子たちはどう生きていくのか、一年生にレギュラーポジションを奪われた三年生は、その後どんな気持ちで練習に取り組むのか、お地蔵様はいつも黙って見守っています。作品は、最後に延長での逆転サヨナラ勝ちという、本当に奇跡のような出来事で終わります。やはり、「かさじぞう」の最後をイメージせずにはいられません。地震にもめげず、ポジションをとられても諦めずに頑張ったから、そのご褒美として、<勝利>が与えられたのか。でも、それでは、<かさじぞう>にはなりません。そこで、作品の中でお地蔵様は、何を見つめていたのかを思い出してみました。
地震の二週間後、ソフトボール部の練習が再開されましたが、やっぱりみんな元気がありません。業を煮やしたコーチが急にバットを持ちノックをやり始めます。「もっと大きな声を出せ。」「声は願いなんだよ!」と怒鳴りながら。練習の掛け声は、だんだんと大きくなり町に広がっていき、倒れた家の前でうなだれている人々の耳にも届いていきます。腕組みをして地面に目を落としているおばさんやおばあさんたちがだんだんと顔を上げていきます。
インターハイ出場が決まった夏、一人のおじいさんが海に出て、さざえをバケツいっぱい獲ってきます。そして、監督の家に届けます。「これ、みんなで食べて。」
他にも印象的なシーンがたくさんありますが、やっぱり一番魅力的なのは、監督(先生)の自宅での合宿生活の映像です。玉子焼きを作ったり、ししゃもを焼いたり、数学の宿題を教えあったり、トイレ掃除をしたり・・・と、あたりまえの日常をカメラは丁寧に写し撮っていきますが、時々思わず笑ってしまうような場面もあります。長髪禁止、日焼け止めクリームもだめという規律の中でも、女の子たちは朝起きるとすぐに水道の水で寝癖を直します。「女子のたしなみです」とつぶやきながら。笑いながらおしゃべりを楽しんでいる二人の女の子を撮っているカメラに向かって、ブツブツ言います。「もう、やめて、撮らないで・・」「下着を出せないでしょ・・」 カメラは引き下がるしかありません。みんな元気いっぱいです。辛い練習の後、夜の九時半ぐらいから晩ごはんが始まります。お腹がすいているのか、お茶碗に超山盛りによそったごはんにかぶりつきます。みんなでワイワイおしゃべりしながら、本当に楽しそうです。でも、その後、カメラは女の子のお尻をアップで写します。丈夫そうでしっかりしたおしりの下には両足がきれいに畳まれています。
先生はあまり言葉を口にしませんが、このシーンだけで先生の子どもたちに対する思いがきちんと伝わってきます。
こうした本当に魅力的な彼女たちにお地蔵さまは、何を届けたんだろうと、また考えてみました。すると、ふと物語の最初に流れたナレーションが浮かんできました。

「これからどう生きていけばいいのか、まだわからないけれど、あの高校時代のできごとが私を支えていて、これからもきっと私を支えていってくれるような気がします。」

お地蔵様から、贈り物はちゃんと届いていたのです。

この日本という国に生きている若者の口から、<私たち>という言葉が発せられるのは本当に、何十年ぶりのことなんだろう。

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