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週刊こぐま通信
「室長のコラム」

「アクティブ・ラーニング」という言葉を使わなくなった

第567号 2017年2月24日(金)
こぐま会代表  久野 泰可

 最近新聞紙上で、3月に告示される次期学習指導要領の文言の中から、「アクティブ・ラーニング」という言葉がなくなったという報道がありました。その理由としての文部科学省の説明を、新聞・通信各社が伝えています。
  • 定義が多様で混乱を招く (読売新聞)
  • 多義的で誤解を招く恐れがある (読売新聞)
  • 指導要領は広い意味での法令であり、しっかりした定義のない片仮名語はなかなか使えない (時事通信社)
  • アクティブ・ラーニングという言葉が非常に多義的で、概念が成熟しておらず、法令には使えない (時事通信社)
その代わりに文科省は、「主体的・対話的で深い学び」という表現を前面に打ち出しました。その内容を新聞では、
  • 意見発表や討論を重視した「主体的・対話的で深い学び」(読売新聞)
  • 答えのない問題に挑む力をつけさせるとして、先生が一方的に教える形ではなく、討論やグループ活動などを通じ、「主体的・対話的で深い学び」への工夫を求めた。(朝日新聞)
と報じています。

日々、子どもたちの指導に当たっている我々にとっては、「何を今更・・・」と強く思いますし、「非認知能力」にしても「アクティブ・ラーニング」にしても、実践の裏付けのない話ばかりで話題が先行し、さまざまな本も出版され、言葉が一人歩きしているように思います。

非認知能力の重要性が叫ばれたり、アクティブ・ラーニングが必要だと言われてるのは、従来の知識を教え込む教育法では、これからの社会で求められる人材は育成できないと考えられているからです。ロボットの発達で、人間の労働の多くがそれにとって代わり、人間が担う仕事が何か、そして社会に出て成功するにはどんな力が必要か・・・というところから出てきた議論です。大学の入試方法が変わると言われているのは、知識の量を測る試験では社会にとって有用な人材が育たないと、誰もが感じ始めているからにほかなりません。

教科書があり、ノートがあり、先生がいれば、知識の注入はできる・・・それが教育だと考えらえてきました。しかし、その教育指導の概念が変わったのは、「自分で考え・自分で判断し・自ら行動に移す」ためには何が必要か、知識がどれだけあっても可能にはならないと皆が考え始めたからです。特に、私たちが指導の対象にしている「幼児」は、何も知識がないから徹底して教え込めばよいと考える大人が大勢います。幼児期の基礎教育の内容も方法も、「読み・書き・計算」に象徴される知識や技能の習得でよいと、何の疑いもなく考える有識者も多いと聞きます。

新しい概念が示され、その肉づけをさまざまな立場の人が行うのは歓迎すべきことです。しかし、何が一体問題なのかを子どもの立場に立って議論することもなく、現実の矛盾に蓋をしてあるべき姿を語っても、何の改革にもなりません。教育の議論はいつもそうですが、現場で子どもたちの指導に当たり、日々悪戦苦闘している教師の声はどこにも届かず、現場の矛盾を知らない役人や専門家が議論するから混乱するのです。「アクティブ・ラーニング」と言おうと、「主体的・対話的で深い学び」と言おうと、それだけ今の知識偏重の教育は、人材育成としての機能を果たしていないということです。その原因をひとくくりにしないで、ひどい教育の現場をまずみんなが共有すべきです。「幼稚園の教育に何が足りないのか」、「小学校低学年の指導に子どもが興味を持たないのはなぜなのか」、「計算ができても文章題ができないのはなぜなのか」、「自分の意見をしっかりとした言葉で言えなくなっているのはなぜなのか」・・・それぞれの学年で起こっている深刻な状況をまず知り、そこに共通している問題点は何かを議論すべきです。その議論がないまま、アクティブ・ラーニングの方法を論じても、実際の現場では有効に機能しないだろうということは、やる前から分かっています。

私たちが「事物教育」「対話教育」を30年以上も前から掲げ、必要だと言ってきているのは、幼児期の子どもたちの教育を真剣に考え、実践し、壁にぶつかり、それを乗り越えて子どものためになる教育を考えれば、それしか方法がなかったからです。実践の矛盾を解決する方法として打ち出したもので、最初から頭で考えたものではありません。「思考のプロセスを大事にする」という当たり前のことがなぜ今までなされてこなかったのか。私は、それを幼児期の基礎教育の中で実践し、メソッドを完成させてきました。教育者であれば当たり前の、「思考のプロセスを大事にする」ことが、なぜ今になって叫ばれ始めたのか不思議でなりません。

以前こんなことがありました。数年前、韓国の幼稚園の先生方30名ほどが、私の授業を見学に見えました。事物を使った授業、子どもとやり取りし、答えを導き出すまでの思考のプロセスを言語化する授業を見終え、そのあとの意見交換で、次のように発言されました。

「先生の授業はとても素晴らしいと思います。私たちも幼稚園で実践してみたいと思いますが、知識の注入が教育だと教えられてきた私たちに本当にできるかどうか不安です」
大学や専門学校で教えられてきた「教育とは知識を教えることである」という発想から見れば、180度転換した子どもを主体とした授業に驚くとともに、本当にそれが自分たちにできるかどうかと感じたのでしょう。特に幼稚園・保育園で教員・保育士を養成する学校で、どのような指導が行われ、どのような人材が現場に送り込まれているのか・・・これは隣国の問題だけではないと思います。教育を変えるには、よき人材を育てなければダメだということは、だれもが認めるところでしょう。はたして日本では、どのように行われているのか、・・・そこが変わらなければ、文科省のいう「主体的・対話的で深い学び」などできるはずはありません。

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