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週刊こぐま通信
「室長のコラム」

幼小一貫教育を考える(5) 対話教育の二つの意味

第285号 2011/3/25(Fri)
こぐま会代表  久野 泰可

 こぐま会では、幼児期における基礎教育の方法として「事物教育」と「対話教育」を重視してきました。物事に触れ、物事に働きかけて認識を深めていくという事物教育の方法から必然的に要請されることですが、私たちが「対話教育」を大事にしているのは次の2つの理由からです。その一つは、考え方の根拠を常に言語表現を通して確認し、また定着させていくということです。ペーパーを使わない分、答えや考えの道筋を言葉を使って表現するしかありません。例えば、仲間集めにおいては「どんな仲間ができたのか」等を聞いてみます。すると、同じ分類作業をしても「どのように分けたの?」という質問に対し「形で分けました」と言える子と「これはね、三角の仲間でしょ・・これはね、四角の仲間でしょ・・・」と説明する子がいます。それは、単に言葉での説明の仕方の違い以上に「認識」の違いが絡んでいるはずです。このように、認識と言語は結びついているものであり、認識のレベルを確認していくためには「言語」を媒介としたやりとりが必要です。

また、対話教育が必要なもうひとつの理由は、少し比喩的な言い方になるかもしれませんが、「子どもの認識レベルと教師が常に対話する」ということです。つまり、一人一人の子どもがいったいどこまで理解し、どこでわからなくなっているのかを、指導する教師がしっかり把握し、理解度を引き上げるためにどんな働きかけをしたら良いかを常に考え続けるということです。教師が子どもの認識レベルと対話し、適切な言葉かけや課題の提示をしてあげるということです。

「対話教育」は、子どもの能力を引き出すための方法論です。子どもに、言語の力を通して認識を定着していくだけでなく、教師が子どもに適切な働きかけをするために、子どもの発達を鋭く見抜くこと、つまり子どもの認識レベルと「対話する」ことがどうしても必要なのです。幼児期の基礎教育が教え込みの教育で解決するということは、一部の人間を除いて、誰も信じているはずはありません。しかし一方で、ではどのようにしたらよいのか、も解っていない場合が多いのです。それは、発達理論を積み重ねていけば結論が出るというほど単純ではありません。実践的な積み上げが必要です。残念ながら、今の日本の幼児教育においては、そうした実践の積み上げが足りません。だからこそ、手っ取り早く、小学校低学年の学習課題を易しく薄めて下ろせばよいということになってしまうのです。

子どもの発達の程度を知り、そしてその子がどのように認識能力を高めていくのかの見通しがないところで、新しい教育実践は生みだされません。こぐま会が30年近く実践してきた内容は、決して小学校受験で合格するための受験教育ではありません。受験も含めて、いま幼児期に必要な基礎教育を、「事物教育」と「対話教育」という画期的な方法で積み上げてきたのです。子どもの存在が見えない教育論も、また、教具・教材も意味はありません。そこに子どもの存在があるからこそ、こぐま会の教材に高い評価が与えられているのです。対話教育の持つ2つの意味をしっかり踏まえ、ペーパー主義に陥らない教育を実践し続けることが、日本の子どもたちの学力低下を阻止することにつながるはずです。ペーパー教材さえあればできるという安上がりな幼児教育ではなく、子どもたちの「考える力」を育てるために、一人一人の指導者に高い「専門性」が求められています。「対話教育」の進め方にこそ、その教師の専門性が凝縮されているのです。

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