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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.70「アキレスとカメ ~家庭・学校・塾の指導者としての在り方に関する見解~」

2011年10月28日(金)
こぐま会小学部長 渋谷 充
 今日はまず、有名なパラドックスから紹介しましょう。

~俊足の神アキレスは自分の前方にいるのろまなカメを追い越そうとしています。しかしどうでしょう。現在カメがいる位置まで走るのにはある一定の時間([1])がかかってしまいます。その時間内([1])でカメは少しだけ先に進んでいますので、またその位置までアキレスは再び時間([2])をかけて走ります。するとカメはその時間の間([2])また先に進んでしまいます。これでは、アキレスは追いつくまでに[1]+[2]+・・・と一生追いつけなくなってしまうのではないでしょうか。~

これは「アキレスとカメ」という有名なお話を簡略化してかいたものです。耳にしたことのある方も多いと思います。直感的にはカメを追い越すことができるのは明白です。ですから議論の目的としては、この不可解なパラドックスを論破することになります。
さて、このパラドックスの中に潜む謎に、一定の解答を与えるのは実は容易です。実際に追いつくまでのアキレスを各位置において無限回に分けて考えているだけですから、そもそも追いつけなくなるという論理にはなりません。言葉のトリックにはまってしまいそうになりますが、表面に見える言葉ではなくその考え方に注目してぜひ論破したいところです。また、ここで大切なのは[1]+[2]+・・・と無限個の数を足した時に無限大になるかもしれないという先入観が存在することです。実際は無限個の数を足したとしても、その和が無限大になるとは限りません。例えば上のように足し合わせる時間がどんどん短くなるものでは5+0.5+0.05+0.005+…=5 5/9(5と9分の5)のようにある一定の値に近づいていき(収束し)、その値を超えることはありません。要するに追いつくまでの時間はやはり決まっており、上のパラドックスではそれを細切れに考えているだけのものになります。
論理的な追究においては、これで一件落着でしょう。このように前提や論理にある種の欠陥がある場合を疑似パラドックスといいます。この場合、時間を無限回足し合わせることと、追いつく追いつかないの結論は全く別の話になります。
だからといって、このパラドックスの存在自体が無意味なものになったのでしょうか。いえそうではありません。[アキレスとカメ] のパラドックスを追究することにおいても、ミクロの世界とマクロな世界の合理的な融合を果たしている側面があることも非常に大切です。物事を深く知ろうと細かく分析すると、それまでの直感的な理解が確かなものになる一方で、想像もしえない結論を導き出すことができたり、いくつもの整合性を取りづらい矛盾を生じさせる場合もあります。それらの疑問や矛盾をパラドックスと呼び、そのパラドックスを解決しようとするところに新たな方法や定理、概念が生まれるのです。
子どもの教育一つをとっても然りです。ある問題を解くためには、ある特定の技能が必要だとわかったから、それを指導しようとする行為。行儀のよい子どもの共通点を探ったら(例えば)7つ見つかったから、その7つを指導しようとする行為。すべて大切なことです。しかしその先には必ずある種のパラドックスが待ち構えていることでしょう。しかも教育という定義があいまいな世界においては、非常に難易度の高い問題になります。しかし、そのパラドックスから逃げないことです。実際の家庭や学校、塾のような現場では、志半ばで教育の追究をやめ安住を求めて達観してしまう瞬間もあります。しかし「教育がなければ素晴らしい世の中になる」という命題が真であるとは思いたくないところですし、これだという絶対的教育観が存在するわけもありません。ゆえに、よき指導者であることは、よく知っていることよりも、どんな矛盾や疑問についても強い追究心をもっていることに近いと思えます。「あまりミクロを考えすぎて博士気質になり、誰も話を聞いてくれなくなる。」「あまりマクロにこだわりすぎて、ノリだけの指導者になってしまい、専門性が伴わない」などのジレンマがありますが、これも乗り越える気概を持って教育に取り組みたいものです。

[補足]
 後半が言いたいことなので、特にパラドックスは「アキレスとカメ」でなくともよいのですが、数ある中から説明しやすいものを選びました。ところで、パラドックスの中には [アキレスとカメ] のような擬似的なものではなく、どちらの言い分も正しい「真のパラドックス」もあります。これまた、教育観との関連性が非常に深く、興味深いものですが今回はこれにて失礼します。

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