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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.69「アバウトの大切さ」

2011年10月21日(金)
学習塾 プラウダス講師 石原弘喜
 肝っ玉母ちゃんと呼ばれるタイプの母親をめっきりと見かけなくなりました。豪放磊落で、細かいことには気にしない。でも、他人に迷惑をかけると人目もはばからずに大声で叱り飛ばす。学校の先生の言うことに従うこと、宿題はしっかりとやっていくこと。そういう守るべき最低限のことを守っていればそれでいい。そういう母親たちでした。

その子どもたちもまた大らかでした。勉強はそれほどできるわけではありませんが、リーダー的な存在を担う子どもが多く、友人同士の人間関係を円滑に運ぶ力がありました。けんかをしても自分たちで上手に解決して、またすぐに仲直りする。そういう子どもたちでした。

肝っ玉母ちゃんでないにしても、以前はアバウトな母親が多かったような気がします。そのアバウトさはいい加減さというよりは、心のゆとりであったように思います。そのゆとりが子どもを伸び伸びとさせ、本質的な意味での学力の土台を築きあげていたように思えます。

小学校低学年は、子ども自体が混沌とした状態にあります。本当にわかっているのかいないのか、親の目からもはっきりしない時期です。学力の器が固まっていないため、流動的な状態にあるためです。きっちりした親からすると、今やっていることが本当に効果があるのか、無駄ではないのかと常に不安になってしまいます。

肝っ玉母ちゃんが減った代わりに、合理的な母親が増えました。小学校低学年の子どもは合理性の対極にあるため、不安になる原因が絶えません。低学年に限らず、子どもの成長は合理的で効率的な考え方で割り切れるものではないので、自分の方法論が通用しなくなると不安に駆られる親が多いように見受けられます。合理性は時としてそこからはみ出したものを許容しません。

子どもの教育に対して、親が心に一点の曇りもない状態にしようとすると、その歪みは子どもに現れます。それは子どもから自我を奪い、親の自我とすりかえることだからです。

許容の中で伸び伸びと育った子どもは、小学校では成績がぱっとしなくても、学年が上がり成長するにつれて頭角を現してきます。人間的魅力もあるので、人に慕われることが多くなります。

アバウトとは、重要なこととそうでないことのメリハリです。していいことといけないこと。そのメリハリの裏返しなのです。子どもにとってはわかりやすく、伸び伸びとできる許容性があるからこそ、豊かな心が育まれます。今、子どもの教育で一番必要なのは、ゆとりと許容性に裏打ちされたアバウトさであると感じています。

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