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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.68「親が与える1」

2011年10月14日(金)
こぐま会小学部長 渋谷 充
 秋の陽気が続いている今日この頃ですが、小学校受験を迎えるご家庭は大きな壁に立ち向かおうとしている真っ最中であると思います。親御さんの人生にとっても非常に大きな1ページで、子どもにとっても漠然とした今後の人生に必ず残すであろう足跡を刻もうとしています。今回は、10月13日(木)の室長セミナーにおいてご紹介にあずかりお話しした内容を、いつもの「算数を得意にするマクロ環境」と絡めてコラムにまとめたいと思います。

前回は数の感覚を育てるうえで、量に与える数のカウントアップを定着させることが重要であると述べました。ただし、指導者側から見た場合ここにも教育を永遠のテーマとさせるような事態が起こります。数をかぞえるための基準の定義がたくさんありすぎて、何気なく過ごしていた日常の場面でも、大人が疑問に思うことが多いことに気づきます。

例えば「水切り」「石切り」など地方によって呼び方は違いますが、川に向かって平たい石を投げて何回ジャンプするかを競う遊びを思い出してください。特に男性はよくした遊びで非常に懐かしく思うことでしょう。
その時、たくさんやればやるほど子どもたちの中にルールの定義に疑問を持ち始める子が出始めます。石を投げて一番最初に川に接触するところから「1,2,3・・・」と数えていたけど、最初の1回は必ず当たるし、水に跳ね返ることを楽しむ遊びということの本質を考えれば最初の1回はカウントなしで、2回目に接触した時から「1,2,3・・・」と数えるのが筋ではないか。そうしなければどんな下手な子でも1がカウントされてしまうし、最低記録が1というのはどうも具合が悪いと。
これは算数のカウントアップとしてはどちらも正解としてよいでしょう。最初のルールでは数かぞえの基準となる0を自分が動き出した瞬間においているわけで、そこからは主体の分身である石が川にあたった回数をカウントしているわけですから、特に定義づけに困ることはありません。このルールですら、たまに川に当たらず0という伝説的な記録を残してしまう場合もあります。


ところで勉学の世界ではどうでしょう。すごろくゲームのような問題設定があります。ここにおいては、「駒が動いた数」にカウントの定義を置いていることは言うまでもありません。もっと細かく言えば駒が動いた証として一歩動くたびにその、動きの途中ではなく終着点に自然数という印を置いていることになります。この考えは今後、量と数の関係や間の数のカウントなどの概念に発展していくものなので、非常に重要なポイントになります。


しかしながら、この場面でスタートのマスから「1,2,3・・・」とマスの数をカウントしてしまうお子さまも少なからずいます。これも数かぞえの観点では確実に正解です。同じくしてものさしで長さを測る場面を想定します。
右の図のような、一般的なものさしではメモリに数字が書かれていません。
やはり上のすごろくの例のように、0cmの部分から1cm、2cm・・・と数えてしまうケースが発生します。
すごろくにしてもものさしにしても、数え方という観点ではもちろん正解です。
これを間違いだと言われてしまったら、それまでの数え方自体を疑わなければならない状況に追い込まれます。数をかぞえる定義が、発展概念としてまだしっくりこないだけなのですから、実体のある量や実体のつかみづらい空間、またはものの動きというものに数を与えてピンとくるまでの経験が少ないというだけの話です。また、これは簡単だからうちの子は大丈夫と思ってしまって、どんな状況で理解しているのかを盲目的に構えてしまったり、この教え方はもう知っているから大丈夫という方法論のみで算数が解決できるとお考えの親御さんもいるでしょう。実際、強引に教え込めば大体どんな子も正しくできるようになります。「動いた分を1,2・・・と数えなさい」でわかる子はわかります。しかしその瞬間潜んでしまった、不連続で閉鎖的な定義のつけかたは、後に必ず算数という教科において不具合が出始めます。大切なのは、このぐらいであれば子どもが一瞬で理解するための経験をしているかどうかです。

算数や数学の学習においては、ほとんどが概念学習だとよく言われます。その概念を理解するための勉強はできるだけ効率よく体系化できる道具として存在します。しかしながら、その概念を理解するまでの経験が乏しければいくら体系化しようとしても、魔法をならっているようなもので自然の論理を破壊した理解になってしまいます。学習として体系化させる技術を豊富に持っているのが我々のような職業の人間です。もちろんその場で経験→体系化も含めてお子さまの教育を支えている自負があります。しかし、お子さまの経験のほとんどは教室以外で行っていますので、事実上そこでの経験に頼ることもしなければならない場合があります。
私はしばしば、指導においての経験上、上のような発展概念を得やすい環境として子どもが能動的に行動しているかどうかを重視します(能動的に行動する=大人の視点から見た良い動きとは限らない)。やはり受動的に行動している子どもにとっては、行動自体が内にこもってしまい、主体からの客観性への進展が後手に回ってしまうことが多いようです。ものの動きという観点においては、自分が動き出したところがすべての絶対基準になってしまい、固定的な状態になってしまうのです。よって、他に影響を及ぼしたり、はたまた自分の影響下にないものの動きなどに基準をおきづらくなるのは言うまでもありません。そんな状態で学ぶ算数はどこまで行っても理解に苦しむ教科の1つでしょう。子どもにその発展概念を身に着けさせる経験を与える中心は親です。その方法は直接的に言語という手段を使って「~しなさい」ということだけではありません。それだけではたかだか「1」の本質を教えることがなんと難しいことかすぐに気づきます。やはり非常にアナログで、無限大の可能性を持つ親の行動を持って、(※1)間接的に関わってあげることに勝るものはないでしょう。
月並みですが、子どもは親の背中を見て育つといいます。それは直接的に教育をするという意味ではないでしょう。子どもが成長するために、自分の生きる姿をしっかり見せること。その動きそのものが、子どもの能動的な行動、かつ発展的な概念への成長を促し、他ならぬ「親が与える1」になり得ます。


[補足]
 ものの理解の順番が必ず理屈がわかってからとは限りません。もちろん方法論による理解が実を伴っていなくても、後に経験が後追いしてきて理解できる場合もたくさんあります。しかしながら、いつも申し上げるようにお子さまの中に「試行錯誤できる力」がそなわらない限り、非常にリスキーな状態になってしまうので、できるだけ物事を深く、時間をかけて解決できるような問題設定と、そのような問題に集中できる環境を整えることも大切です。

※1・・・間接的に関わることの中には、「何もしないで見守る」という0行動も含みます。

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