ページ内を移動するためのリンクです
MENU
ここから本文です
週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.65「子どもの「自由」が子どもの「自由」を奪う」

2011年9月23日(金)
学習塾 プラウダス講師 石原弘喜
「子どもが計算問題をいやだと言って困っています」

「漢字練習が嫌いと言うのですが、どうしたらいいでしょうか」

「好き嫌いが激しくて、好きなことはいつまでもするんですが、したくないことは頑としてしないのですが」

小学校低学年の子どもを持つ保護者の方からこういった質問を受けることがよくあります。自分の好きなことには興味や関心を示すのですが、反面、嫌いなことには見向きもしない。そういった傾向に手を焼いているようです。

近年、知的好奇心の重要性が叫ばれたことで、保護者の意識が高まってきました。巷には知的好奇心を刺激するような幼児や小学校低学年向けの教材が溢れ、どれを選んでいいか迷うほどになりました。また、意識の高い幼稚園では、知的好奇心を高めるための綿密なカリキュラムと教育環境を整え、優れた指導者が一丸となってとり組んでいます。

今の子どもたちは「知的好奇心ネイティヴ」と呼ぶことができるかもしれません。生まれながらにして知的好奇心に満ちた素材に溢れる世界に住んでいます。さらに親の選択次第では更にそれを刺激し、高めることができる時代であるといっていいでしょう。実際、小学校低学年の子どもを抱える保護者の教育観は急速に変化してきました。教育に対する意識の高い保護者の多くが、学力の本質を見定めて紐解く力を有するようになっています。

知的好奇心の重要性の浸透はそのひとつの現れです。しかし、そこで止まっているような印象を受けているのも事実です。

知的好奇心は「自由」と表裏一体をなしています。興味や関心のあることに次から次へと向かっていくのが知的好奇心の本質です。ですから、知的好奇心を子どもが持った時に保護者がそれを無下に否定してしまえば、子どもは萎縮してしまいます。否定とは子どもの「自由」を奪うことだからです。しかし、保護者が子どもの知的好奇心を過信するあまり、自由にさせすぎてしまうことも、結果として子どもの「自由」を奪うことになります。知的好奇心の炎に風を送り続け更に炎が燃え盛ると、子ども自身にまでその炎が及んでしまいます。

子どもの知的好奇心の赴くまま、あまりに自由にさせすぎると、自分のしたいことしかしなくなります。自分の興味や関心以外のことをしなくなり、やがては拒絶を始めます。それはやがて自分の興味や関心の絶対視へとつながり、それ以外の価値観を受け入れなくなることもあります。いわば自分の思い込みに縛られている状態です。

こうなると、「聞く力」が減退し他者の話に耳を傾けることができなくなります。新しいことにも素直にとり組めなくなります。知的好奇心が知的好奇心を縛り付けている状態です。これを回避するには「制約」が必要になります。それは保護者の一方的な思いつきの制約ではありません。他者との人間関係に基づいた「制約」であり、「公」と「私」を区別するための「制約」です。

かつて「躾」と呼ばれていたその「制約」は、学力の土台を一番の根底で支えていたのだと感じています。(了)

PAGE TOP