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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.64「低学年の作文は国語力を高めるのか」

2011年8月26日(金)
学習塾 プラウダス講師 石原弘喜
 作文は必ずしも国語力を高めるわけではない。そう言われたら意外でしょうか。しかし、小学生に関してはこの結論が当てはまることが多いのは事実です。「子どもが作文を苦手としていて困っています」という保護者の方は少なくありませんが、作文の性質と小学生の学力を考えればそれは当然だと言えます。

まず、作文とは何かを考えてみましょう。それは知識や情緒を言葉に紡いで活字でアウトプットされたものであり、書き方のルールがあらかじめ決まっている形式的なものです。小学生にとって作文が苦手となるのはこの点にあります。作文が形式的なものであることが、小学生の特に低学年にとっては大きな壁なのです。

小学校低学年は学力が混沌としている状態にあります。これまで何度も書いてきたように、高温で熱せられたガラス細工のように学力の輪郭が定まっていない時期にいます。学力の土台が国語力であるという考えに立てば、その時期は国語力もまた混沌としている状態にあるのです。混沌は形式を受け入れることができません。低学年の子どもに書き方を教えた後で作文を書かせると、大人の目から見ればとりとめのない流れになっていることがほとんどです。

しかし、これは学力の発達期に見られる一般的な現象です。書きたいことがあっても整理された文章になっていないのは、知的好奇心によって知識をインプットする時期であり、まだ形式に従ってアウトプットする状態ではないからです。インプットされた知識が定着を始めて、秩序が見られるようにならないと形式を受け入れることは難しいようです。ですから、ある程度の文章量を書ける力があったとしても、それを段落や文章の形式に沿って整えるのはまた別の問題であると言えます。その意味では、低学年で形式だった作文ではないとしても、それはむしろ当然であると言えるでしょう。

その意味で、低学年において私は作文の書き方をあまり重要視していません。私が注意するのは「何を書いていいかわからない」という点です。これには二種類の場合が考えられます。ひとつは文章にできる情緒があるにもかかわらず、それを言葉で表現する方法がわからないという場合。もうひとつはそういう情緒が不足している場合です。

前者は書く機会を与えて添削すると、めきめきと文章が上達する場合が多く見られます。自分の情緒を文章としてアウトプットする方法を体感すると、文を書くのが苦痛ではなくなります。一方、後者は体験について感じる情緒が育っていないため、まるで業務報告書のように自分が体験した事実をそのまま書き出します。これは低学年の男の子に多く見られるもので、文を書くことが反射的な作業になっています。

作文は自分の中にある考えや情緒を形式に沿って客観化する行為ですから、前提として書くべきものが自分の中になければ書けません。ある程度の情緒とそれにつながる語彙がなければ、作文を書くことそれ自体で国語力を高めるのは難しいのです。

それでは低学年で作文を課題や宿題とすることに意味はないのでしょうか。私は低学年の作文は知育教育と同じように、知的好奇心を育むきっかけのひとつであると考えています。 しかし、通常の知育教育は「外」に向かって知的好奇心を向けていきますが、作文は「内」に向かっていきます。作文を書かなければならないことで、意識的に自分を振り返り、内観する時間を持つからです。これは自己を客観視するためにはとても重要なことです。その意味で、作文とは自己を客観視する最初のきっかけになり得る貴重な機会なのです。

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