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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.60「再び、「スーホの白い馬」について」

2011年6月17日(金)
こぐま会教務部長
幼小一貫ひまわりクラブ国語担当
山下淳二
 今年も「スーホの白い馬」の読解の授業を行いました。作品の読解を終えた後で、今年は馬頭琴の音色を聞かせてやろうと思い、CDを探しました。野花南というグループのCD「マガリヤ」という作品の中に馬頭琴を使った演奏がたくさん入っていました。最初からずっと聞いていくと、音楽だけでなく語りのついた「スフと白馬」がありました。馬頭琴の演奏の間にモンゴル民話の再話が入っているのですが、これが絵本(大塚雄三再話)の内容と大分異なるのでつい聞き入ってしまいました。

昨年もこの場を借りて「ある違和感」について述べましたが、この「スフと白馬」の語りを聞いていたら、そのもやもやがスーッと晴れていくような気がしました。去年、読解の授業をしている時、2人の女の子が「いっとうになったものは、とのさまのむすめとけっこんさせる」という箇所に疑問を持ち、「けっこんさせるなんて、何かへん?」とつぶやいたのです。女の子たちは多分「これって、ちっとも自由なんかじゃない」というようなことを感じていたのだと思いますが、それとは違った意味でもやはりここはおかしいような気がします。確かに貧乏だけど、おばあさんや近所の優しい人たちに囲まれて幸せな生活を送っているスーホが、「とのさまのむすめとけっこんさせる」という約束につられて競馬の大会に出たとは、どうしても思えないのです。仲間の羊飼いに勧められたということもありますが、やはりスーホは「自分の白馬がどんなに素晴らしい馬か」ということを確かめたかったように思えるのです。絵本の方は、競馬の大会に出ると決めたスーホの気持ちが今ひとつはっきりとつかめないのです。それから、このあたりを治めている殿様の<像>が、あまりにもひどすぎるのです。我が儘で、傲慢で、とても怒りっぽくて・・・そんな男がはたして殿様になれるのか?、と。何か作られたような気がしてならないのです。

でも、この「スフと白馬」の内容は、その点がとても自然な形で描かれています。一等をとったものには、「殿様の娘と結婚させる」ではなく、「たくさんの褒美をあげる」というようになっています。これだったら、スーホが競馬の大会に出る動機が納得できます。また、殿様のほうの気持ちもよくわかります。絵本の方は、約束を破った理由が「まずしいみなりの羊飼いだったから」という点に子どもたちの意識が向かってしまいがちですが、CDの方は、「白馬が本当に欲しくなった」という気持ちがはっきりと伝わってきます。「スフと白馬」では、レースの終わった後、殿様はスフと白馬を褒め称えます。そして、上機嫌で「褒美を2倍にするから、白馬を譲れ」と言います。スフが断ると今度は「褒美を3倍にするから白馬をよこせ」と迫るのです。それでも、スフが頑固に断るものですから、とうとう堪忍袋の緒が切れていくのです。殿様の感情が少しずつ変わっていくのが、納得できるのです。ただの我がままな殿様ではないのです。殿様が本当の悪人ではないゆえに、このお話の悲劇性(どうしようもなかった)がより高まっていくのです。「殿様=悪者」と描くとこの作品のテーマが<支配-被支配>の関係になってしまい、スーホと白馬の結びつきが弱まってしまうように思えます。絵本では、スーホにとっての白馬を<兄弟のように>と、CDでは<家族>という言葉であらわしていますが、このスーホと白馬の関係がやはり中心テーマなのです。授業の現場で子どもたちに問いかけてみました。「スーホにとって白馬はどんなもの(存在)なの?」「じゃあ、とのさまにとっては?」。兄弟という言葉はすぐに出てきましたが、殿様にとっては何なのか?、はなかなか出てきませんでした。「はやい馬」とか「かっこいい馬」とか、いろいろな意見が出てきましたが、最後に「家来かも?」という発言がありました。子どもたちは、ちゃんとわかっていたのかもしれません。

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