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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.55「算数を得意にするマクロ環境 ~教育観特別番外編~『「まちがってない探し」の算数的評価』」

2011年5月13日(金)
こぐま会小学部長 渋谷 充
---(注)ここから「※」マークまでは前回と同じ内容です---
 「まちがい探し」なるゲームは誰しも知っている楽しいゲームですが、私が考える「まちがってない探し」も楽しいはずです。それは決して真新しくもなく、私が発案したわけでもない。皆日常でおこなっている思考ですからルールはいたって簡単です。
早速下の2枚の写真をご覧ください。左はある商店街の現在の様子の写真。右は同じ商店街の大正時代の様子を写したもの。ありがちではありますが、同じ場所の今昔を写真で比較したものです。


どうでしょう。ここに今から話すルールなどは余計で、見るだけでも楽しいと思えるのは私だけでしょうか。しばらく話しかけられもせず眺めていたい気持ちになります。
しかしながら本題に戻し、「まちがってない探し」ルールはこうです。「2つの写真を見比べ、変わっていない所をあげなさい。」
通常の「まちがい探し」が両者の違いを見つけるゲームであるのに対して、この「まちがってない探し」は変化していないところを見つけるというものです。1分ほど考えてみてください。

まず、両者において幾何学的造形は明らかに違うところだらけです。せいぜい電柱が疑わしい程度で、ほとんどすべての概観は変貌しきっています。結論から申し上げると、答えは一つに定まりません。例えば「道路と建物の位置関係」でも構いません。だまされた感が残るとは思いますが、このゲームの目的は「変わっていないところ」を幾何学的な視点を超えて定義するところにあります。瞬発的に視覚に飛び込んでくる情報にさらに知識や経験などを織り交ぜた複合情報へと作り変えることに意味があるのです。そこにはもちろん人それぞれの思考があって当然で、決まった解答などありえないはずです。それどころか皆で集まってこのゲームをすれば、解答などなくとも各々がたくさんの視点を享受したり、発見できることに喜びを感じるはずです。写真がもつ第一義的な情報は、人を介し有機的な情報として生まれ変わり、また人にとって新たな情報環境を提供してくれることになります。この「まちがってない探し」はゲーム性豊かなので、教育の現場でも知らず知らずのうちに行っているかもしれません。
---※ここまで前回と同じ内容です---


ところで、算数とはどのような関係があるのでしょうか。つるかめ算や流水算など、ご存知「特殊算」は算数の勉強をするうえで(特に受験組は)必ず通らなければならない単元です。特殊算の考え方は非常に難解で保護者の方々も昔苦しめられたことと思います。特に、2つの量の和や差に注目したり、面積図を用いたりと解き方も千差万別でつかみどころが無いようにも見えます。例えばこのような問題。

現在9歳のA子さんは、お母さんが24歳のときに生まれました。お母さんの年齢が、A子さんの年齢の3倍 になるのは今から何年後ですか。

<普通の解答>
この問題がヒントなしではわからない生徒に説明するとしたら、私なら2つ解法を示します。
  1. お母さんの年齢が3倍になるまで、1歳ずつ足していって強引に見つける。
  2. 2. 線分図を利用する。

お母さんの年齢が、A子さんの年齢の3倍になったときのA子さんを(1)として線分図を描くと上のようになります。A子さんが生まれたときにお母さんが24歳ならば、年齢の差は保存されます。つまり線分図の上でも2人の差の部分の(2)にあたる量が24年ということになるので、(1)は24÷2=12になります。よってA子さんが12歳のときなので、答えは3年後。
※朱塗りの部分は自ら書き足さなければならない。

よく見かけるこの問題は「年齢算」という単元で勉強します。なぜ解答1が必要なのかは今回の議論ではないのでいずれお話しすることにして、一般的な解法として線分図を使って巧みに解いている解答2に注目します。ここで大切な視点は「差の保存」。年齢差はいつまでも変わらないということに注目して、この問題を解く足がかりとします。生徒にとってはこれが難しい視点です。目に慣れ親しんできた「9」や「24」という記号が与える、直接的な「量」の概念に関しては分かっていて当然です。しかし、その「差」に注目するという概念はもはや日常生活ではなかなか置きえません。

算数の教育観において考えて見ましょう。特に、現場の指導(学校・塾・家庭)という、言わば教育の最前線においての取り組みについて考えます。
今のところ解答2のような線分図を書かせて、理解してもらう指導法が主流です。なるほど無機質な文章を線分図により可視化することで幾何学的な視点を導入し、そこに自然発生する新たな概念の導出を促しています。
指導者は線分図を描き、「差に注目しなさい。この差の(2)が24年分でしょう。」といいます。そして生徒は「なるほど。そうか。」となり、答えを求めます。一見どこの現場でも見られる算数の授業風景となり、実際の指導の方法論としても満足のいくものだと思います。

問題はこの後です。この問題のレベルは基本例題レベルであり、この単元を勉強し始めた日以来、あとはお目にかからないぐらい簡単な問題です。方法論云々に関わらずほとんどの生徒が理解したように見えてしまいます。ここから、この基本問題を例題としてさらに発展的な問題に取り組んでもらわなければならないのです。しかしながら、この解き方を利用して、より発展的な問題をこなすことができる生徒はごくわずかになってしまいます。家庭においても、「うちの子は基本問題は大体できるんだけど、算数の成績がよくない。塾だけだとだめだから親も一緒になって教えるんだけど、それでもあがらない。」というジレンマに陥りがちです。

子どもは「差」という概念の体系利用に対して、その時点ではしっくりきてないわけですから、この線分図による解法を使いこなせるわけがありません。このことは他の単元についても全く同様の現象が起きることを容易に予想させます。とどのつまり、これ以降の発展問題はすべて例題として捉えてひたすら特訓します。そして、類似(酷似)問題にだけ解答できるようになりますが、いつになってもその考え方を利用して解かなければならないような問題には手が出ません。いわゆる初見の対応力に乏しい「例題マスター」となってしまいます。算数の苦手意識が芽生える、または無駄な勉強漬けの始まりの一要因でしょう。

ではどのようにして、このような現象を回避しましょう。ここで、上の「まちがっていない探し」のエッセンスが「年齢算」のそれと同等であると言いたいと思います。変わらないものに注目する「保存」という観点では全く同じであり、しかも2量の差を定義したように見た目の幾何学視点から一歩踏み込んで概念を定義しなければならない点も酷似しています。
ただ、その中にも単なる年齢算の勉強特訓との唯一にして最大の違いがあります。楽しいかそうでないかです。

ところで子どもの「楽しい」とは、何でしょうか。それはできるだけ無責任で、また自己完結がしやすい状態であると定義します。それ以上は細かく定義しません。なぜならそれは簡単に言えば無邪気で子どもらしい状態というだけだからです。大人社会の常識や理性的な社会ルールなどとは反義語に近い状態といっても過言ではありません。

さて、日常の問題との遭遇において、その「楽しい」状態を保ちやすいのは、子どもの頃は(いや大人でも)「まちがってない探し」の方だということは明らかです。このようなゲームをすることが、新たな概念の導出に対する嫌悪感が発生するのを防ぎ、ある種の免疫力のようなものを作ってくれるのです。年齢算に限らずほとんどの算数問題は、エッセンスを抽出し同様の「楽しい」ゲームに置き換えることも可能です。それを楽しむだけでいいのです。
反骨精神や成功体験など勉強のモチベーションを支えるものはたくさんあります。しかしそれはあくまでも二次的要因で、より基礎的な経験を私は帰納的経験と呼びます。より「楽しい」といえる経験が帰納的経験に近い状態で、その経験をさらに利用して発展させる可能性を高めてくれます。「楽しくない」経験をいくら多く積んでもその利用価値はほとんど無に帰すことでしょう。
年齢算において「差に注目して解きなさい」という指導は、算数指導においては間違っているとは思いません。ただし、このことを「まちがってない探し」にあてはめると、上のような2つの写真について「看板に注目しなさい」と言っているだけであることを注意しなければなりません。その行為は、必然的に「楽しくない」方向に進むことを助長し、このゲームの「楽しい」のほとんどを失わせていることになるでしょう。指導の現場に立つ人間はこのことを理解することが肝心です。指導する側にそのような理解があれば、子どもたちが悪循環に陥る前に臨機応変で有効な一手を打てることになります。

勉強であろうがゲームであろうが根本は一緒です。それを扱う指導の立場の人間のあり方しだいでは、いかようにも変わります。どんなゲームでも、大きな責任を追及したり、見解を固定させたりすることは、そこにある帰納的経験の価値を消してしまいかねません。いわゆる子どもらしさを意図的に消す行為に等しいといえます。現在の指導のあり方を否定しているわけではありません。これまでの教育関係者も創意工夫の上、現在の指導法に至っているという必然性があります。そして、その指導法においてある一定の成果を出してきました。私が言いたいのは学校や塾、家庭のような子どもを取り巻く教育環境はたくさんありますが、とりわけ今回のコラムで書いたような帰納的経験がしやすいような環境をどこかが担わなければならないということです。責任や結果ばかり追及するのではなく、子どもらしくいられる環境こそが求められます。学問としての算数を潤滑に学ぶ権利を得るためにも、また、塾での学習効果を高めるためにも子どもを預かる機関のあり方が非常に大切になっています。


あとがき
 このコラムで用いた「年齢算」の例題は、よく見ると定義不足です。文中にも「普通の解答」としておきました。 ちなみにこの設問であったように「現在9歳」だけでは、「現在」がお母さんの誕生日の前なのか後なのかで、この問題は不能になることもあります。A子さんが9歳だからといって、お母さんが9+24の33歳とは限りません。ですから、「A子さんが9歳で、お母さんは33歳です。」とかいてあるのが正しい設問となるでしょう。昔はどこからともなく回ってきたプリントで指導していると、このような定義不足の設問がちらほら見られました。今ではだいぶ解消されています。文中あえて修正しなかったのは、生徒にとってこの定義不足を見破ってもらうのも勉強だからです。また、これをご覧になる保護者のかたがたにお子さまの算数力が健全に育っているかを判断する材料にしてもらいたいと願うからです。「この問題と解答をよく見ると違う場合もあるんじゃない?」と問いかけてみてください。コラムに書いたようにただの「例題マスター」では決して見抜けません。

また、前回のコラムとの比較において「まちがってない探し」をめぐる両者の教育観に注目していただきたいと思います。コラム自体の論理展開も互いの特性を意識して書いて見ました。国語的教育観は子どもへの介入性と静的な完結。算数的教育観では子どもへの非介入性と動的な完結。両者とも突き詰めれば人間と自然の調和がテーマになっているようにもみえます。ちなみに「こぐま会小学部」では知能育成型の授業で、このような帰納的経験を子どもたちにより多く持ってもらうような試みをしております。特に小学校低学年期のお子さまをもつ保護者の方には、育みの期間としてこの時期を捉えて、通常の勉強とのバランスを取ってもらうためにご覧いただきたい授業です。

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