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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.37「楽しいこれっ!」

2010年12月17日(金)
こぐま会 幼小一貫ひまわりクラブ算数担当
久野雅弘
 授業も後半にさしかかった頃、いつも決まった言葉を発する子どもがいます。

「楽しいこれっ!」

難しそうな顔をしながらじっと考えてるお友だちの中で、この子の声と表情は、この瞬間、その日一番の輝きを放ちます。

今年の1月から始まったひまわりクラブ(1年生)もあと数回の授業を残すだけとなりました。ひまわりクラブでは、毎回8枚~10枚のペーパーを2時間かけて行います。ペーパーの内容は「前回までの復習」「新しい単元の学習」「まとめの文章題」という構成になっています。
先週の授業では、「時間と時刻」の学習を行いました。この授業で、つまづきが見られた主な問題は以下の通りです。

1.時計は何時何分ですか? (短針の見た目に惑わされ、9時55分と答えてしまう)
2.12時から1時間半まえの時刻は、何時何分ですか? (「時」と「分」を別々に考え、11時30分と答えてしまう)
3.50時間は何日と何時間ですか? (1日と26時間と答えてしまう)

中でも理解度の差が大きく出るのが、「3.」の時間を表す言葉の学習です。


「10秒」という時間を体感した後で、1時間=60分、1分=60秒、1日=24時間という条件に基づいて、いろいろな時間を別の表し方で書くという内容です。

いつもの一言は、このページを解き始めてから間もなくのことでした。

「楽しいこれっ!」

表とグラフ、テープ算、長さ(単位換算)、あまりのあるわり算・・・、この1年で学習した新しい単元の学習の最中、突如として発せされるこの言葉にいつも驚かされます。このときも同じです。もちろん授業中ですから、その態度を叱らざるを得ない状況もありますが、この子(以下A君)の弾んだ声と生き生きとした表情をみていると、ついこちらもワクワクしてしまいます。時には「頼もしさ」さえ感じます。

もう少し詳しく説明すると「楽しいこれっ!」という言葉は、ある瞬間、無意識(または反射的)に発せられている、そんな感じです。当初、私がA君に抱いていた印象は「知的好奇心に満ち溢れている」というものでした。

少し話はそれますが・・・、「幼小一貫教育を考える会」の第1回目で「知的好奇心」というキーワードが登場し、さまざまな議論がされたことを覚えています。一般的に「知的好奇心」がある状態というと・・・

「昆虫に詳しくなりたい」
「難しい漢字が書けるようになりたい」
「この事件の背景にあるものは何か知りたい」
「電車の動く原理を知りたい」
「もっと計算が速くなりたい」
というように「もっと知りたい」「もっと上達したい」と言った感じになります。

しかし、A君の場合、上記のような情報やスキルの習得とは関係ないところで、「楽しいこれっ!」と発言していることが、最近なんとなくわかってきました。

彼が無意識に声を出してしまうほどの興味を感じる瞬間・・・、それは
「これまで培ってきた経験をたどって思考した結果、新たな論理が生まれたとき」
だと私は考えいています。

幼児期の一対多対応、包含除、つりあい、単位の考え方などの学習の経験や、未測量、位置表象などで身につけた考え方により、「1日=24時間」という与えられた条件から、「50時間=2日と2時間」という結論に導けたこと、また、その道筋がはっきり見えた瞬間に、A君は「楽しい」と感じているのだ・・・、とそう考えるようになりました。
これを「知的好奇心」と言えるかどうかはわかりませんが、A君の感じる「喜び」は「論理の拡大」に対する喜びだと言えます。これは、あらゆる教科学習やスキル習得にも、大きな影響を及ぼすと考えられます。

子どもを取り巻く環境は日々変わっています。テクノロジーの発達に伴う利便性の向上、インターネットの普及による情報の増大により、消費者側が求める「価値」は多岐に渡っています。また「良い」と「悪い」が紙一重に存在する現代において、企業に求められる人材もまた大きく変わりつつあります。東大生よりも愛知県のある大学生の就職率のほうが高いという事実がその一端を表しているのではないでしょうか。
これからの社会で活躍するために、さらには、日本が資源大国に負けない「豊かな国」になるためには、「価値」を創造する力が必要だと私は考えています。「価値」を創造するためには、確固たる論理を伴わなければなりません。また、確固たる論理とはその人の経験に基づいたものでなければなりません。ビジネス書やブログなどの知識や情報を並べただけでは「価値」は生まれないのです。また、仕事を遂行するために欠かすことのできない目標の設定と目標達成のための計画を練る場面でも論理性が求められます。

「楽しいこれっ!」

私がA君のこの一言を聞くたびにワクワクし、ある種の「頼もしさ」を感じる理由はここにあるようです。小学1年生の彼らにはまだ、「価値」を理解したり「目標」を設定することはできないでしょう。しかし、それらを生み出す土台、すなわち論理の芽が、幼児期から着々と芽生えていることは確かのようです。
生まれた瞬間から、「学ぶ」場面をどう作り出し演出するか、一生を通じて「学ぶ」ことができるための論理や経験をどこまで保障してあげられるのか、これが我々の責任なのだと感じています。

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