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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.28「小中高の授業と幼児教育のつながり~中学受験の授業から~」

2010年10月15日(金)
学習塾 プラウダス講師 石原弘喜
 中学受験生に国語の授業をしていると「はっきりと差が出る問題」に出くわします。いわゆるそれは難問と呼ばれるものですが、それには二種類あると考えています。一つは、日常から遠く離れた問題です。例えば、大学受験に出題されてもおかしくないような高度な知識を中学受験生に求めるような問題です。そしてもう一つは、日常を深く掘り下げる問題です。

日常の深さとは、情緒の深さです。中学受験の問題文の素材としては、主に物語文・説明文・随筆文・詩の四分野に分けられますが、その中で特に情緒の深さを求められるのは詩です。その意味で、詩は「はっきりと差が出る問題」を作成しやすいと言えます。次の詩の問題は平成15年筑波大学附属駒場中学校で出題されたものです。

詩:「青空」(城 左門)
この問題はみっつある大問の最後の一問です。設問は以下の通りです。
問一第一連「限りなく ああ 大きな青空」と、第三連「限りなく ああ 大きな世界」とを比べて、その表しているものの違いを答えなさい。
問二第二連の「そうだ」に込められた気持ちを答えなさい。
問三第四連の「自分が小さくなる/そして大きくなる!」について、
 1 「自分が小さくなる」とはどういうことですか。
 2 「大きくなる!」とは、どういうことですか。

私は授業で筑波大学附属駒場中学校の問題を素材として用いますが、それは国語力の源泉である情緒の豊かさを問う問題が多いからです。つまりそれは前述の「日常を深く掘り下げる問題」であり「はっきりと差が出る問題」です。中でも問一は生徒の解答に最も差が表れました。

この問題の大きなポイントは、「青空」と「世界」が同じものではないことを鑑賞できるかどうかにあります。「青空」は客観的事実としての風景であり、「世界」は主観的認識としての風景を表していると考えられます。「高く」「広く」という客観と対比される形で「ひとつもくもりのない」「美しい」という主観が表現されています。ほとんどの生徒はこの区別ができていませんでした。「青空」も「世界」も、どちらも事実を描いたものとして捉えていたのです。しかし、ひとりだけその違いに気が付いた生徒がいました。「青空」を実際に自分が見えている風景と考え、「世界」を自分が感じている風景であると感じたのです。他の生徒とはっきりと差が出た瞬間でした。

この差はどこから来ているのでしょうか。その生徒は「美しい」という言葉がヒントになったと話してくれました。「美しい」とは自分が感じることであり、「美しい」と感じれば自分がいる「世界」は美しいものになるというような話でした。その言葉の通り、「美しさ」は人によって感じ方が違うものです。美しいものを美しいと感じることができない人もいれば、美しいものを美しいと感じることができる人もいます。美しいものを美しいと感じる情緒が育まれていなければ、この問題の手がかりは見つけられるものではありません。解法という技術とは別の国語力、すなわち国語力の源泉たる情緒を確かめようとした難問である良問であると言えます。

幼児を教えていると、喜怒哀楽の感情がブロック状になっていると感じます。年齢と共に経験を重ね、学ぶにつれてそれぞれのブロックが細かくなっていきます。その細かさが情緒の土台になるのです。細分化されたブロックの数が多ければ多いほど、情緒は豊かになります。そのためには、幼児の時に喜怒哀楽のブロックを大きくしておく必要があります。大きいブロックであればそれだけ細かく分かれる可能性があるからです。

喜怒哀楽のブロックを大きくする。それは幼児教育の重要な役割のひとつです。子どもが持つ感情の種にきれいな水を与えるように、体験を通じて新しい視点を与えることでいろいろな色と形の「感情の花」を満開にします。これは幼児教育が全ての教育の土台である証拠のひとつでもあります。

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