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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.27「音にならない言葉を探す」

2010年10月8日(金)
こぐま会教務部長
幼小一貫ひまわりクラブ国語担当
山下淳二
 数年前から気になっている一篇の詩があります。佐々木幹郎という詩人の「オポッサムと豆」という作品です。

 頭蓋骨の中で からからと鳴るのは豆粒
 オポッサムは二十五個 スカンクは三十五個
 アライグマは百五十個 アカギツネは百九十八個
 コヨーテは三百二十五個 オオカミは四百三十八個

 北アメリカの雪の原野で
 シートンは言う
 オポッサムは救いがたい

 小さな豆が二十五個しか入らない頭蓋骨なんて
 何を考えているのか
 森の中で出会うと 突然眼を閉じて
 眠り出す 何時間でも 死んだふりをする

 狩猟で暮らした祖先たちにとって
 闘うことを知らない獣は はじめてだった
 眠ることが闘いだなんて

 ケンタッキーの冬
 叔母さんの家のかまどの横で寝ていた
 オポッサム一頭
 頭をもたげて 雪降る野に出た

 七日後
 夜の台所の扉をひっかいて
 十頭のオポッサムが戻ってきた

 叔母さんは考える
 暖かさについて
 仲間に伝えることができる言葉について
 オポッサムはオポッサム語で

 かまどの横で寝続ける十頭
 頭蓋骨の大きさに何の意味がある
 豆が何個入るかなんて
詩集『悲歌が生まれるまで』より

 こぐま会では、年少児や年中児のクラスで授業のはじめに自由遊びの時間を設けています。シルバニアの人形で遊んだり、ままごと遊びをしたりすることが多いのですが、言葉を交わさなくても、子どもたちは一緒に楽しそうに遊んでいることがよくあります。顔の表情とか、身体の動きの仕草などで気持ちが伝わっていると思うのですが、<仲間に伝えることができる言葉>をやっぱり持っているんではないかと感じることがあります。むしろ、4歳も後半になって言葉の数が増えてくるとそれに比例するようにケンカも多くなっているような気がしてなりません。<関係>と<言葉>のことについてときどき考えてみますが、言葉が使えるからコミュニケーションがとれるのではなく、関係ができてきたから言葉が通じていくように思えてなりません。使える言葉の少ない幼児期だからこそ、かえって「親和力」のようなものが強いのかもしれません。

ひまわりクラブ9月の国語の授業では、説明文「チンパンジーと道具」の読解を行いました。ずっと昔からある作品で、説明文を読解する際の典型のような教材です。シロアリとりの棒や木の葉で作った水飲みのスポンジを作る工程を理解したり、チンパンジーの道具と人間の道具との違いなどを読み取っていくなかで、チンパンジーがいかに利口なのかを学んでいくものです。でも、読解をしていく中で、自分のこの作品に対する見方が以前とは異なってきているような感じを覚えました。

もう10年以上(?)も前のことですが、テレビでピグミーチンパンジー(今はボノボというようですが)の生態を撮った映像を見たことがあります。仲間のチンパンジーがケンカをしようとしているときに、1匹のチンパンジーが興奮している仲間に正面から抱きついて、「いい子、いい子」とでもいうように宥めているのです。ちょっとびっくりしました。その仕草が、ほとんど人間と変わりなかったからです。道具を作るということももちろん凄いことですが、ケンカの仲裁ができるというところにより進化を感じるのです。脳だけでなく、心も発達しているのです。辞典をみたら、ボノボは仲間に食べ物を分けたりもすると書いてありました。いろいろと考えさせられました。ゆりクラス(年中児)では、授業で等分や分配の仕方を教えていますが、もしかしたら、順序が逆なのではないかと思いました。ホットケーキの2等分の仕方を教える前に、仲間にホットケーキを分けてあげられるかどうかが課題になるのでないか、と。等分の方法(わり算)は、大きくなってからでもいいのです。幼児期は、オポッサムのように友だちをつくったり、その友だちにおやつを分けてあげたりができるようになることが大切なのです。小学校入試に「行動観察」が導入されるようになってから久しいですが、先生たちが見ているのは、遊びの仕方ではなく、このオポッサム語(仲間に伝えることができる言葉)を持っているかどうか、のような気がします。先生には、そうしたことが直感的にわかるんだと思います。

 「チンパンジーと道具」の読解の授業をしている時、新聞に面白い記事が載りました。「記憶」の学習をするチンパンジーについてはよくニュースになりますが、そのチンパンジーたちが夏になって急にやる気をなくしたというのです。研究者は、最初、今年は猛暑だったから夏バテかな、と思ったそうですが、でも食欲は落ちていないし、どうしてだろうと考え込んだようです。そして、もしかしたら(?)・・・。実は、仲間の1人(?)、それもいちばん積極的に「記憶」の学習に取り組んでいたチンパンジーが死んでしまったのです。全然勉強しなくなったのは、それが原因なのでは、と想像したそうです。記憶の学習をしなくなったからダメなのではなく、仲間の死にショックを受けて無気力になってしまったことに、逆に発達(感情面の)を感じてなりません。チンパンジーは、叫びたいのかもしれません。「ぼくらは、記憶の勉強をするロボットじゃないんだよ。喜んだり、悲しんだりすることのできる優れた生き物なんだよ。」、と。また、この新聞記事は、別のことも考えさせてくれました。自分が受験生に向ける視線が、このチンパンジーを見るそれと全く同じではなかったかと。テストの結果だけで、子どもを判断していなかったかと。「行動観察」は、子どもの発達をみるというだけでなく、親の、そして大人の子どもに向ける視線を点検するもののような気がしてなりません。

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