ページ内を移動するためのリンクです
MENU
ここから本文です
週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.26「子どもが発する学力低下のサイン」

2010年10月1日(金)
学習塾 プラウダス講師 石原弘喜
 子どもは日々、揺らぎと乱高下を繰り返しながら急速に成長しています。不安定であるがゆえに、ほんの少しのきっかけで高く舞い上がることがあれば、その逆もあります。「たったひとつの言葉」や「たったひとつの体験」が子どもの人生を変えるほどのきっかけになることもあります。

しかし、子どもの変化に占める割合の中では、「日常の緩やかな変化」の方が多いものです。子どもにとっては日常が自己そのものであり、日常を拡張することで自己を拡張します。日常が不安定であれば、サインを発しながら「学力の高度」はゆっくり降下していきます。そのサインの種類はさまざまです。気付きやすいものもあれば、気付きにくいものもあります。

「めんどうくさい」

見過ごされやすいサインのひとつにその言葉があります。それが日常的に子どもの口をつくようになると危険です。知的好奇心の炎が今まさに消えかかっている状態と言っていいでしょう。漕ぎたくない自転車を漕がなければならないのと同じで、したくない勉強をしなければならない状況だけがそこにある状態です。

以前は読書や勉強に積極的に取り組み、生き生きとしていた子どもが突然その言葉を吐くことがあります。その原因をたどると、「親の過剰な目標設定」に突き当たります。例えば中学受験。親が中学受験を意識し始め、子どもに「結果」を求めるようになる場合がそうです。子どもは何も変わらず、知的好奇心のおもむくまま楽しく伸び伸び取り組みたいだけなのですが、親がそれを許しません。

曰く「子どものため」とか「子どもが合格したいと言った」とか、そのような理由を用意します。だから「結果」を出さなければならないという論理なのでしょう。甚だしくなると、「過程は問わないからとにかく『結果』を出せ」と子どもに迫る親もいます。とにかく手っ取り早く「結果」を出すため、片っ端から子どもに知識を詰め込んでいきます。国語の問題文まで全部丸暗記をさせようとしたケースさえありました。

しかし、それは大人の論理を子どもに一方的に押し付けているに過ぎません。大人でさえ継続的な結果を出し続けなければならない環境下においては、精神的に追い詰められ参ってしまいます。子どもはなおさら大人が求める「結果」など望みません。知りたいから知るという知的好奇心が、子どもの学習意欲に火をつけるのです。つまらないものはつまらない。そこに知的好奇心が反応しなければ、学ぼうという意欲が湧いてきません。それにもかかわらず、それを強いられると、「めんどうくさい」という言葉が口をつくようになるのです。

確かに、中学受験を目標として意欲的に取り組む子どもが多くいます。合格という「結果」を望むのが本人の意志であるならば、それはすばらしいことです。しかし、それは特に中学受験だからすばらしいというのではなく、子どもが自らの意志で目標設定して自らの意志で何かを乗り越えようとすることがすばらしいのです。もちろん、それがスポーツであっても芸術であっても同じことです。子どもが自ら進んで取り組む時にみなぎるエネルギーは、子どもの可能性を最大限に引き出します。それがすばらしいのです。

子育てや教育は、100%子どもの目線でなければ、すぐに知的好奇心の炎が小さくなります。私はこれまで優れた資質を持った子どもがそうして萎縮していく様を多く見聞きしてきました。子どもにとって不自然な状態は、どんなに正論で論理的であっても大人のエゴにしかなりません。時として、大人の正論や論理は子どもの学力を阻害する最も大きな要因のひとつになりうることを、子どもに関わる人間は認識すべきです。

PAGE TOP