週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」vol.20「生活と勉強がはなればなれに」
2010年8月21日(土)
こぐま会教務部長
幼小一貫ひまわりクラブ国語担当
山下淳二
ひまわりクラブ(2年生)の国語では、7月に物語文演習の一つとして、東君平の「水あそび」という短い童話の読解を行いました。こぐま会教務部長
幼小一貫ひまわりクラブ国語担当
山下淳二
「はじめのうちは、水てっぽうであそんでいたんだ」
男の子が、いいました。
お母さんがいいました。
「それが、どうして、こうなったの」
男の子は、頭のてっぺんから、足の先までずぶぬれになって、立っていました。
「だから、はじめのうちは、水てっぽうで、水のかけっこだけだったよ」
「それで、どうしたの」
お母さんは、うでぐみをして、にらみました。
「そしたら、そのうちに、両手に、水をくんで、かけたんだ」
「だれが」
「みんながだよ。ぼくもだけど」
男の子は、両手に水をくんで、かけるまねをしてみせました。
「それだけで、こんなになったってわけ」
お母さんは、さっきより、もっとこわいかおになりました。
「ううん」
男の子は、首をふりました。
「それで、どうしたの」
お母さんは、声も、さっきより、こわくなりました。
「そしたら、こんどは、ホースで、水のかけっこになったんだ」
男の子は、ホースの口を、指でつまんで、水を遠くへとばすまねをしてみせました。
「それで、とうとう、こんなに、なったってわけ」
「うん」
男の子が、うなずくと、お母さんは、大きな手で、ぬれたおしりを、ピシャリと、ぶってから、
「お父さんに、言いつけるからね」といいました。
男の子は、心の中で、『お父さんならぜったいおこらない』と思いました。
男の子が、いいました。
お母さんがいいました。
「それが、どうして、こうなったの」
男の子は、頭のてっぺんから、足の先までずぶぬれになって、立っていました。
「だから、はじめのうちは、水てっぽうで、水のかけっこだけだったよ」
「それで、どうしたの」
お母さんは、うでぐみをして、にらみました。
「そしたら、そのうちに、両手に、水をくんで、かけたんだ」
「だれが」
「みんながだよ。ぼくもだけど」
男の子は、両手に水をくんで、かけるまねをしてみせました。
「それだけで、こんなになったってわけ」
お母さんは、さっきより、もっとこわいかおになりました。
「ううん」
男の子は、首をふりました。
「それで、どうしたの」
お母さんは、声も、さっきより、こわくなりました。
「そしたら、こんどは、ホースで、水のかけっこになったんだ」
男の子は、ホースの口を、指でつまんで、水を遠くへとばすまねをしてみせました。
「それで、とうとう、こんなに、なったってわけ」
「うん」
男の子が、うなずくと、お母さんは、大きな手で、ぬれたおしりを、ピシャリと、ぶってから、
「お父さんに、言いつけるからね」といいました。
男の子は、心の中で、『お父さんならぜったいおこらない』と思いました。
東君平「水あそび」より
- 「お母さんは、さっきよりも、もっとこわいかおになりました。」とありますが、どうして、お母さんのかおは、こわくなったのですか。
- 「男の子は、心の中で“お父さんなら、ぜったいにおこらない”と思いました。」とありますが、どうして、そのようにおもったのですか。
なぜ、この作品を選んだかというと、ストーリーは単純だけど、登場人物の気持ちの変化を読みとるには、最適の教材だと思ったからです。子どもたちと同じ年令の主人公ならば、感情移入がしやすいのですが、お母さんやお父さんの気持ちを想像するのはとても難しいものだからです。
また、読解の糸口として、頭の中であれこれ想像するというよりも自分自身の生活体験と照らし合わせて考えていくということを経験してほしかったからです。
実際に授業をやってみると、予想したとおり、こちらが期待していた答えはなかなか返ってきませんでした。主人公が男の子で、授業に参加している生徒が全て女の子ということもあったと思うのですが、思うようにはいきません。男の子がびしょぬれになってしまったから、お母さんがおこったということはわかっているのですが、もう一歩ふみこんで「正直に話さないから」「なかなか本当のことを言わないから」というようなことに気づいた子はほんのひとにぎりでした。お母さんの顔や声がだんだんこわくなっていくというのは、日常生活の中でみんな経験していると思うのですが、そうした経験を読解に応用することができないのです。生活の中での経験と物語文の読解とがはなればなれになってしまっているのです。授業では、この短い童話を劇遊び風におこなってみたのですが、やっぱり女の子です。お母さんの役がとても上手で、本当はちゃんとわかっていたのではないかと思ったくらいです。お父さんについては、だいたいわかっているようでした。「やさしいから」とか「あんまり怒らないから」といった表現が多かったのですが、「お父さんは、細かいことはあまり気にしない」というようなことは普段の生活の中で感じているのかもしれません。
幼児の言語の授業では、絵カードを使ったお話づくりをよくします。女の子が泣いている顔や笑っている顔などのカードを出し、「どうして花子さんは泣いているのか、お話ししてください」という問いかけをします。この時、いつも、「お話はつくるんじゃなくて、みんなが泣いたときのことを思い出してそのまま話せばいいんだよ。」と言うのですが、元気よく話せる子と固まってしまって全然話せない子と両極端です。国語の授業での小学生と同じで、どこかで勉強と生活とが切り離されてしまっているのかもしれません。本をたくさん読めば、漢字がいっぱい書ければ、それで国語の力がつくとはどうしても思えません。毎日の生活の中で体験したことを国語の授業のなかで生かしたり、また逆に国語の授業で学んだことを生活の中で応用するということがあって、初めて国語力が着いたということがいえるのだと思います。
東君平(絵本作家、童話作家)が生きていたころは、よくその作品を国語の読解の教材に活用していました。彼の作品は、<物語>に逃げてしまうということがなく、現実の子どもの姿をとてもリアルにそして温かく描いていました。ですから、単調になりがちな読解の授業も面白くなってくるのです。毎日の暮らしが、短い童話に変わり、その童話の読解が、人間の理解へとつながっていく。生活と勉強とが一体となっていた良き時代だったのかもしれません。国語の力とは何か、ということを考える前に、子どもの日常生活が今どうなっているかということを思ってみる必要がありそうです。