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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.18「国語力と読書」

2010年7月30日(金)
学習塾 プラウダス講師 石原弘喜
近年、本の読み聞かせが子どもの教育に欠かせないものとして、広く普及するようになりました。朝の読書を取り入れている学校も珍しくありません。しかし、以前より子どもたちの国語力が向上したかと言われれば、首をかしげてしまいます。率直に言って、子どもたちの国語力に劇的な変化があるようには思えないからです。むしろ、読み聞かせが普及する以前と変わらない印象を受けます。

確かに、読書習慣が身についている子どもが増えている気はします。本を読んでいる子どもはかなりの量の本を読んでいるのは間違いありません。知識も豊富ですし、自分の考えも持っています。しかし、国語力が高いかと言われると疑問符がついてしまうのです。

私は大学受験の現代文も教えており、いろいろな大学の入試問題に接してきました。私見ながら、その中でも東大の現代文に見受けられる良問には目を見張ることがあります。決して平易ではありませんが、かと言っていたずらに難解ではなく、問題文の選定や設問の構成ともに練られているため、「本物の国語力」がなければ読み解くことができません。現在、国語力が高いとされている子どもが、果たして将来的にこの問題を読み解けるだろうかと考える時、どうしても引っかかるものを感じてしまうのです。

誤解を恐れずに言えば、東大現代文は読解力以上の力が要求されています。「本物の国語力」という言い方をしたのはそのためで、読書量や演習量で身につく「読解力」を超えた国語力が求められています。もちろん、「量」をこなすことで合格レベルの得点を獲得することはできると思います。しかし、本当の意味であの問題を読み解くとなると「量」でまかなうことはできません。

実際、東大に合格した生徒の国語力は、読解力以上の力を持っていました。活字から情報を吸い取って理解すること以上の力。人間の情感というか、機微というか、感情の源泉というか、そういうもの一切を束ねる情緒によって読み解いていました。私はそれを「情緒のひだ」と呼んでいますが、喜怒哀楽という四類型をさらに細かく刻み「情緒のひだ」を増やすことができるかどうかが、読解力を超えた本物の国語力の土台であると考えています。

「情緒のひだ」を細かくするのは体験と思考です。体験と思考によって感情のひだが細かくなり、言葉にできない気持ちが増えていきます。それを言葉としてつなげる機会が読書なのです。「情緒のひだ」が少なければ、読書を重ねたとしても、読解力を超えることは至難の業です。いくらたくさんの本を読んでいても、挨拶がしっかりできなかったり、他人をいたわることができない子どもは、本当の意味での国語力はありません。

ですから、思いやりがあり他人の気持ちを理解できる子どもは、それだけで十分な国語力があります。ある時点で漢字が書けなくとも、それは学習習慣をつければ解決することです。しかし、人の心がわからないのは学習習慣では解決できません。日常のあり方を正していかなければ、国語力は高まることはないのです。そういうことをなおざりにして、どこか功利的な発想で子どもに読み聞かせをしても、本物の国語力を得ることはできません。他者への配慮であったり、別の価値観への敬意という情緒がなければならないのです。

今年東大に合格した生徒もまた、豊かな情緒を持っていました。彼の答案は技術や量によって作りこまれた匂いは感じられず、あるがままの情緒が滴るように書き連ねられていました。情緒は洗練に親しむというのが私の考えですが、彼もまた洗練された国語力を持っていました。洗練された国語力は美しさを好みます。思考・語彙・表現のどれをとっても美しい方へと流れていきます。情緒や洗練や美の上に国語力はそびえ立っているのであり、それらと切り離された「国語力」がどこかに存在するわけではありません。まして、必要な時に必要な分だけ購入できるものではないのです。長い時間と手間の結晶。その表現のひとつとして国語力があるのです。

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