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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.16「漢字と国語力」

2010年7月16日(金)
学習塾 プラウダス講師 石原弘喜
「国語の勉強は漢字をやらせていればいいですよね?」

これまで何度となくこの質問を受けてきましたが、その度に答えに窮します。確かに、漢字は国語の勉強の一部であり、国語力の一部でもあります。小学生を対象とした国語の問題で、漢字が出題されない国語のテストはないと言っていいでしょう。社会に出てからも漢字が書けなければ恥をかいてしまいます。また、漢字の勉強は学習習慣を身につけるのにも役立ちます。机に座る学習習慣の始まりは、漢字からという場合も多いのも事実です。

しかし、漢字の勉強を国語の勉強と見なすのは、必ずしも漢字の重要性を認識しているためとは言えません。国語の勉強方法がわからないために、消去法の結果として漢字の勉強が残ったというのが実情です。更に言えば、国語の勉強がわからないというよりは、国語とは何かがわからないからなのだと思います。そのために、漢字やことわざ、慣用句といった「わかりやすいもの」に手をつけていくのです。

確かに、漢字は「わかりやすい」ものです。漢字テストは頻繁になされ、それが国語という科目の評価にも直結します。ミスの原因は勉強不足。努力をすれば自ずと満点が取れます。これ以上の「わかりやすさ」はありません。しかし、この「わかりやすさ」が本来の国語力の育成を阻む原因になっている場合が多いのです。前回のコラムで「思考の知識化」について述べましたが、漢字の勉強が国語の勉強にすりかえられた状態もまた「思考の知識化」を引き起こします。

例えば、ことわざを例に挙げてみます。子どもが「鬼に金棒」ということわざが定着するプロセスを考えてみましょう。「鬼に金棒」ということわざを一つのフレーズとして「能力のある人がさらに力を持つ」という意味と対応させる場合があります。また、「鬼」や「金棒」の意味を知った上で、意味と対応させる場合もあります。しかし、「鬼に金棒」というフレーズを記憶しているだけの場合はどうでしょうか?

実際、「鬼に」のあとで「金棒」が続くという知識で止まっている子どもは少なくありません。「『鬼に』の次はなにがくるかな?」という質問に「金棒!」とは答えられても、その意味が答えられないのです。危惧するのは、意味を知らないことではありません。その意味を考えようとしないことなのです。「鬼に」のあとに「金棒」がくる。そういう問題を数多くこなしてきたのでしょう。でもそれはオウムとかわりません。大人によって思考の省かれた知識を与えられ、思考なしで記憶しているに過ぎません。

思考の知識化――。本来、知的好奇心が活発であれば、目につくものすべてに「なぜ?」の問いを発します。こぐま会のばらクラスで教えていると、「なぜ?」「どうして?」という子どもたちの声が、授業中だけでなく授業外でも飛び交います。こちらが答えると、また考えて「なぜ?」を発してきます。その問答が割り切れないところまで繰り返されて、ようやく「なぜ?」が止みます。そうやって子どもたちは思考して、知識として定着させていきます。

鬼ってなんだろう。金棒ってなにかな。そうやって思考した先に知識があり、それが「思考化された知識」として有機的に結合することで、「鬼に金棒」ということわざも子どもたちの中に取り込まれていきます。その思考のプロセスから、国語の源泉ともいうべき「情緒」が生まれてくるのです。漢字やことわざを記号のようにひたすら記憶しても、本当の国語力は育ちません。

次回のコラムでは、読書と国語力の関係についてお話します。東大合格者の国語力を例に挙げながら、それが身につくプロセスについて述べたいと思います。

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