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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.13「物語文を読解することの困難さ」

2010年6月25日(金)
こぐま会教務部長
幼小一貫ひまわりクラブ国語担当
山下淳二
 何年振りかで物語文「スーホの白い馬」の授業に取り組みました。久しぶりで驚いたのは教科書の絵が変わってしまったことです。赤羽末吉の絵があってこその作品なのに、いったい何があったんだろうという気持ちです。新しい絵はとてもきれいで現代的な感じがするのですが、スーホの住む世界とは大分違うような気がしてなりません。赤羽末吉の絵そのものが作品の理解を手助けしていたのに、これでは逆に妨げになってしまうのではないだろうか?

1時限目の時に全文を読み合わせしてみました。子どもたちはみんな集中して聞き入っていました。中には目に涙をためていた子もいました。でも、この作品は「かわいそう」とか「悲しいね」で終わらせてはいけないと思います。

ちょうど今、ちひろ美術館で赤羽末吉展を行っていたのでいってみました。「スーホの白い馬」という絵本が作られた背景を知ることができました。作者のモンゴルに対する思いがとても深いものだということがよくわかりました。絵本を細かく見ていたら、あることに気付きました。教科書の方は、「まずしいみなりのひつじかい」とあるのですが、絵本では、「びんぼうなひつじかい」となっているのです。「まずしいみなり」の方が、子どもにとってわかりやすいし、教えやすいのですが、「びんぼうな」という言葉を使ったのにはそれなりの意味があるように思えてならないのです。スーホとその周りにいる人々の生活が<貧乏>であるということがしっかりと想像できないと、この作品の理解そのものが浅いものになってしまうような気がします。

授業は、「・・むかしから、ひつじや牛や馬などをかって、くらしていました。」という一行を考えることから始めました。子どもたちは、「肉が食べられるでしょ」「牛乳も飲めるし」「あっ、牛乳でチーズやバターが作れる」「羊の毛で洋服を作ればいい」「その洋服を売ってお金をもらえばいい」・・・と。「家畜を飼って暮らしを立てる」ということの意味は大体わかっているみたいです。でも、その後で、「二十頭あまりのひつじ」は、暮らしていくうえで多いのか少ないのかという問いかけをすると、子どもたちは、何かぴんとこないような表情をしていました。この「二十頭あまり」という数字が、「年とったおばあさんとふたりきりで、くらしていました。」や「おとなにまけないくらい、よくはたらきました。」という文章とつながっていますし、「びんぼうなひつじかい」という表現に結び付いているのだと思います。また、この「二十頭あまり」という数字がとても少ないものだということ(多分、ギリギリの数だと思いますが)、だから一頭一頭がとても大切なものなんだ ――― こうしたことをふまえたうえで始めて、白馬が羊を守るために必死で狼と戦った行為がとても重たい意味を持つのです。スーホとおばあさんの暮らしを支える大事な羊を守ってくれたからこそ、「よくやってくれたね、白馬」と兄弟にいうように話しかけたのです。

「スーホの白い馬」が最初に描かれてから、もう五十年の時間がたっています。「古典」といっても差し支えないのかもしれません。今を生きている子どもたちにとって遠い世界の話になっているところも確かにあると思います。でも、子どもたちに理解しやすくするために絵や文章を変えるのは、ちょっと違うような気がします。作品の世界がわかりにくかったら、時代背景をきちんと勉強させればいいのです。古典を学ぶとは、そういうことだと思います。

そうはいっても、物語文の読解が年々難しくなっているのは、事実です。この「スーホの白い馬」の前に「ぼたもち蛙」という民話を取り上げました。よそから貰ったぼた餅をめぐって、嫁と姑の2人がドタバタを繰り広げるといった、とても面白い内容の話です。子どもたちもその作品世界を楽しく味わっていると思うのですが、なぜかしっくりきません。
それは、昔の人にとって「ぼたもち」というものが、どういうものだったのかを想像することができないからです。小豆というものがとても高価で貴重なものだったということが想像できれば、おばあさんやお嫁さんがぼたもちをひとりじめしたくなる気持ちがわかるはずなのですが、そこがなかなか実感できないのです。だから、おばあさんがただのけちんぼだったり、お嫁さんがふつうの食いしん坊になってしまうのです。現在を生きる私たちだって、例えば、ゴディバのチョコレートを貰ったりすれば、このおばあさんやお嫁さんと同じような行動を取ってしまうような気がするのですが・・・。時代が変わろうとも、人間の本質なんかそんなに変わらないよ、ということを民話は教えてくれているのです。

今回の授業では、新しい発見もありました。それは、「一等になったものは、とのさまのむすめとけっこんさせるというのでした。」という一行に対する子どもたちの反応です。「けっこんさせるって、なんかへんだよね。」「そうだよね、させるっておかしいよね。」・・・。二十回近くこの作品を扱ってきましたが、こうしたことが語られたのは初めてです。殿様と家来、殿様と民衆、殿様(父親)と娘、そうした主従関係を当たり前のように思っている感覚では、この「させる」という言葉に疑問は持ちようがないのです。挿絵を新しいものになんかしなくても、子どもたちの中に新しい感性は少しずつ育ってきているのです。

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