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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.14「幼小期の「勉強」は学力を低める」

2010年7月2日(金)
プラウダス講師 石原弘喜
幼小期には「勉強」すればするほど学力は低くなる――。もしそうだとしたらどうでしょうか。恐らく、多くの方々が驚かれるのではないかと思われます。しかし、大学受験から幼児まで教えている立場から述べさせてもらえば、それは事実と言っても過言ではありません。幼小期に「勉強」し過ぎてきた子どもは、のちの学力が伸びにくいという事実が確かに存在します。

それでは幼小期の子どもにとっての「勉強」とは何かが問題になります。もし、それが子どもの日常とは断絶したものであるとしたら、前述の通り学力はそこで足踏みします。子どもは日常の中で知識や情報を得て、それを考える力に変えていくからです。子どもにとって日常こそが先生なのです。

興味深い調査結果があります。2010年6月11日付 第247号の久野室長のコラム(「応用段階を迎えた子どもの学力の現状 (2)」)において一対多対応のシーソーの問題が扱われています。この問題を中学受験を目標に勉強している小学一年から三年生までの生徒に解いてもらったところ、ひとつの傾向が現れました。


この問題のポイントは右下の問題です。リンゴと栗の関係性を考える時に、みかんを仲立ちとして考えることが必要となります。この問題を見たことのない子どもに絞ってさせたところ、学年に関わらずほとんどの生徒が右下の問題を解くことはできませんでした。一方、以前やったことがある子どもにさせてみたところ逆の結果になったのです。

彼らの学力とその結果を照らし合わせ、そこに大学受験の視点を加えると、ある生徒の類型が浮かび上がってくるのに気付きます。未知の問題には弱いのですが、やり方を一度教えると類問は間違えなくなる生徒の類型です。「やり方を一度教えると類問は間違えなくなる」ことを「思考の知識化」と僕は呼んでいますが、これができる生徒は大学受験でも安定的な成績を残します。しかし、当然のことながら「思考の知識化」が通用しない問題を出題する大学に対しては歯が立ちません。

「思考の知識化」が通用しない問題とは初見の問題です。この初見の問題に強い生徒がいます。思考が中心にあり、知識でさえも思考で組み立ててしまうタイプと言えばいいでしょうか。実際、上記の問題を初めて見たにもかかわらず、嬉々として解く生徒がいました。彼らは知識の丸暗記を嫌い、思考を経由して知識を定着させます。僕はこれを「知識の思考化」と呼んでいます。

テストや受験に限れば、「思考の知識化」は必要です。一度解いたやり方を記憶するのは欠かせません。そうやって思考を知識化することで思考の選択肢を増やしていきます。ただ、「思考の知識化」というのは、誰かの思考を借りてきて自分の知識とすることを意味します。確かにテストや受験は日常から離れているものですから、そのやり方も効率的だといえるでしょう。

しかし、日常から離れていないところでの「知識の思考化」に対しては注意しなければなりません。幼小期で学ぶことはすべて日常から発信されるからです。つまり、日常の範囲を逸脱してしまえば、日常から離れた思考が必要となり、それは思考の知識化として「与えられる」ものになってしまうのです。

久野室長が同号のコラムの中で、「小学校入試ではたし算・ひき算の世界だけでなく、かけ算・わり算の考え方まで出題されます。それは、幼児といえども生活の中ですべての数的生活を体験しているから」と指摘されています。また、「ものを配ったり、ものを分けたり・・・する行為は、遊びとしても生活行為としてもいたるところで経験している」ために、かけ算やわり算の基礎を扱うとも述べておられます。これこそが「知識の思考化」であると僕は考えています。

日常の中にある知識を思考によって組み立てる。それができるからこそ、知識が自分の日常にとどまり、知ることや学ぶこと、考えることが自分のものになります。知識も思考も発信は日常からなされるものであって、日常から切り離された「勉強」は幼小期の子どもにとって害になってしまいます。日常の中で子どもが気付きにくい視点や考え方を、具体的な事柄を用いて教える。それを「勉強」だとするならば、子どもの学力は輝きを増していきます。

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