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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.7「「なぜ、」、「でも、」という二つの言葉を生きる」

2010年5月14日(金)
こぐま会教務部長
幼小一貫ひまわりクラブ国語担当
山下淳二
 井上ひさしが亡くなって1カ月がたちました。言葉(日本語)についてあれこれ考える時には、いつも「井上ひさしだったら、どう考えるんだろう?」という問いかけを長年の習慣にしてきていたのに、これからはどうすればいいんだろう、という思いです。
井上ひさしの芝居は歌と踊りがいっぱいでとても楽しいのですが、その後にいつも「お前もしっかり考えろよ。」という宿題を背負わされているような気になります。この1カ月の間に再演された『夢の裂け目』と『夢の泪』という芝居もまさにそうした問いかけを突きつけているように感じられました。数年前に初演を見たときには、東京裁判を巡る優れた史劇というようにしか捉えられなかったのですが、今度の再演では少し違ったことを感じました。この芝居の主人公は、紙芝居屋であり、弁護士なのですが、本当の主役は、その娘達ではないだろうかと。もちろん、東京裁判をどう捉えるか、ということが主なテーマなのですが、作者が一番伝えたかったのは、裁判をめぐるゴタゴタの中で、<学ぶ>とはどういうことなのか? <先生と弟子との関係>はどうあるべきか・・・といったことではないかと思いました。歴史劇ではなく、教育劇(?)を作ったんじゃないかと。もしかしたら、これは演劇ではなく、井上ひさしが仕組んだ国語の授業なのでは・・・?

「でも、」の後には、どんな言葉が?


 『夢の裂け目』の中で一番印象に残ったのは、「でも」という接続詞です。
東京裁判の在り方を批判して牢屋に入れられた紙芝居屋が、自作の紙芝居の上演を止めれば牢から出られるという当局の提案に対してひどく逡巡する場面があります。自分の考えにあくまでこだわるのか、それとも外に出て自由な暮らし - おいしいものを食べ、湯上がりのビールを飲む毎日 - を楽しむのか。もちろん、まわりのみんなは外に出ることを勧めるのですが、1人、娘だけは、「捨てちゃ、駄目」と。結局は、外に出て、みんなと一緒に「日常生活の楽しみのバラード」の歌を合唱するのですが、娘の道子だけは、1人離れて歌います。作者はどちらがよいのか結論づけていません。ただ、道子に「でも・・・・わからない」と言わせているだけです。ヨーロッパのレジスタンスの小説や映画のように最後まで抵抗して頑張る方が、確かに男としてカッコいいし、立派なヒーローにもなれます。でも、井上ひさしは、あえてカッコ悪い方を選択しました。なぜだろうと思ってしまいます。多分、娘だけでなく、観客にも、この「でも」の意味を深く考えて欲しいからだと思います。10年後、この紙芝居屋の娘は、大学院に行って勉強しています。この「でも」の後に続く言葉を見つけるためです。「でも」とつぶやくのは、まだ「感性」の世界での出来事のような気がします。「でも」の後に続く言葉を作り出すためには、やはり論理(学問)が必要なのです。井上ひさしは、観客を感動させる芝居を作ろうとしているのではありません。普通の観客が楽しみながら<考える>芝居を意図しているのです。やっぱり、芝居ではなく国語の読解の授業なのです。

「なぜ、」と問いかけるのをクセに・・!


 2つ目の『夢の泪』では、「なぜ」という言葉がたくさん発せられます。
ビル(にっこり笑って)あなたのなぜは、もう品切れですか。
永子(ハッと気づいて)・・・なにもかも判らないことばかりで・・・それで、判らないことがあったら、その場でなぜって訊ねるクセをつけようとしています。
ビルすばらしいクセだ。
弁護士の娘の永子は、いろいろなことに「なぜ、」と問いかけます。「なぜ、街で寄付を集めてはいけないの?」「なぜ、国民が裁判に興味を持つと困るの?」。先の「でも」という言葉は、自分自身に向けられた言葉ですが、今度の「なぜ」は、他者に向かっての言葉です。しかし、「なぜ、」と問いかけても、きちんとした答えが返ってくるとは限りません。逆に今度は自分に「なぜ、」という言葉が戻ってきます。こうしたやりとりが、ずっと続いていきます。でも、教育とはもともとこうしたものではなかったのか。わかったことを生徒に伝えていくことだけが先生の役目ではないように思えます。「俺はここまで考えた。後はお前がしっかりと考えろ!」というように、むしろわからないことを発見して、それを弟子に引き渡す。それが、先生の本当の仕事のような気がします。この芝居では、たくさんの弁護士を登場させ、そうした<先生と弟子との関係>のあり方を提案しているようにも感じられました。10年後、娘の永子は司法研修所を終えて、今は、父親の事務所で実習見習いをしています。
この芝居、聞いていてうるさいくらい、みんなよくしゃべります。戦後の日本、多分1970年代の前半ぐらいまでは、この芝居の登場人物のように熱い議論を交わしていたような気がします。井上ひさしは、本当は、この芝居で「お前たち、もっとおしゃべりしろよ!」ということが一番言いたかったのではないかと思えるのです。安易な言語不信ではなく、最後まで言葉というもの(意味だけでなく遊びも含めて)を信じようとして頑張っていたのだと思います。
国語の授業とは一見関係のないことをダラダラと述べてきましたが、この芝居のように多数の考えに「でも」と疑問を持つこと、それからいろいろな事柄に対して「なぜ」という好奇心を発すること、これが国語の授業の基本ではないかと考えます。
『夢の裂け目』という芝居の最後でみんなは次のような歌を歌います。この「劇場」というところを「教室」に置き換えてみたら・・・と思いました。

劇場は
夢を見る
なつかしい
揺りかご
その夢の
真実を
考える
ところ
劇場は
夢を見る
なつかしい
揺りかご
その夢の
裂け目を
考える
ところ
考える
ところ・・・

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