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週刊こぐま通信
「小・中・高 現場教師が語る幼児教育の大切さ」

vol.2「大学受験からみた幼児教育の重要性」

2010年3月26日(金)
プラウダス講師 石原弘喜
「小学校のうちからしっかり勉強させれば、難関大学に合格する学力が身につくものでしょうか?」

以前、幼児の親の方からそんな質問を受けたことがありました。そのとき私は、「半分はYesであり半分はNoです」と答えました。「半分はYes」というのは、「しっかり勉強させる」ことは学力を高めるためには欠かせないからです。勉強はやり方も大切ですが、勉強量も必要だからです。「半分はNo」というのは、「何を」しっかり勉強させるかによって学力は正反対の結果になるからです。

たとえば、幼児や小学校低学年の幼小期に極端な先取り学習をしている生徒がいます。彼らが大学受験でも高い学力を発揮するかといえば、必ずしもそうではありません。むしろ、大学受験で高い学力を発揮した生徒は、幼小期のそういう極端な先取り学習と接点がない場合がほとんどです。

学力とは「考える力」のことです。「考える力」の土台を支えるもののひとつに、国語力があります。とはいっても、この場合の国語力は「読む・聞く・話す・書く」という日常の国語力のことをいいます。教える仕事をしていると、初対面の子どもと少し話しをするだけで、「あ、この子は成績が伸びるな」ということがわかることがあります。その話し方から「話す国語力」の高さを感じさせてくれるのです。それだけではありません。その子どものほとばしる知的好奇心が、学力の伸びしろの長さを浮かび上がらせるのです。

学力の基礎である「読む・聞く・話す・書く」という国語力が日常の一部だとすると、学力は日常にあるということになります。一方、知的好奇心は日常から離れたものを日常に引き寄せる力です。昆虫や自然や宇宙や物語のような自分の日常にないものに関心を示すのはこの力の高さゆえです。

この点について興味深いエピソードがあります。年長児への授業を始めた頃の話です。ことばの問題で、「甘い・しょっぱい・苦い・からい・濃い」という味についての言葉が出たことがありました。ほとんどの生徒は、「甘い・しょっぱい・苦い・からい」という言葉を説明することはできたのですが、「濃い」という言葉の意味はわかりませんでした。「甘い・しょっぱい・苦い・からい」は子どもにとって最も身近な日常です。しかし、そのひとつ上位概念である「濃い」という言葉は、まだ幼稚園年長の子どもにとっては日常ではなかったのです。

試しにこの問題を小学1年生にも尋ねてみましたが、全員が年長児と同じ結果となりました。今度は小学2年生に尋ねてみたところ、今度は全員が説明できたのです。このことは、小2くらいで「濃い」という言葉が日常に取り込まれることを示しています。とすれば、「濃い」が日常と非日常の境界線上にいる時期もあるはずです。実は、小学1年生のひとりの男の子がそうでした。質問に少し考え込んでから、「あ、そういえば、お父さんがお母さんの味噌汁の味が濃いって言ってたことがあるよ」と手を叩いたのです。私が「濃い」を説明すると、「そうか、味が『濃い』ってそういうことなんだ!」といって目を輝かせました。彼の知的好奇心のアンテナに引っかかったままの境界線上の言葉が、日常側へと転がり落ちた瞬間でした。

知的好奇心とは、非日常を日常に取り込むことで学力を向上させる習慣的サイクルであるともいえるかもしれません。それが幼児期という限られた期間に育まれるものであるとするならば、幼児期の重要性がおわかり頂けることと思います。大学受験を教えている私が、幼児教育という分野で教え始めた理由は、幼児期が後の学力に多大な影響を与えるだけでなく、幼児期にしか形成できない力があると気付いたからに他なりません。

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