週刊こぐま通信
「知育を軽視する日本の幼児教育が危ない」日本の幼児教育の何が問題なのか
第2号 2014/1/17(Fri)
こぐま会代表 久野 泰可
こぐま会代表 久野 泰可


幼稚園の理事長や園長が、伝統的な幼児教育から一歩も抜け出ようとせず、「知育」は小学校に入ってから行えばよいと長い間考えてきたことが、日本の幼児教育の変革を遅らせてきたのです。研究者をはじめ、幼児教育にかかわるすべての人たちが、将来の日本を背負う子どもたちの幼児期の教育をどうするかを真剣に考え、実行に移さないと、海外の動きに相当後れをとってしまうでしょう。

「幼児期は思う存分遊び、知的学習は小学校に入学してから始めればよい。小学校1年生の4月に同じスタートラインに立つので、何ら問題はない」と言ってきた結果、どうなったのでしょう。今は古びた言葉になった感がありますが、ある時期「落ちこぼれ」や「落ちこぼし」といった学力差が生まれる教育のあり方が盛んに議論されました。つまり、「同じスタートラインに立つ」ということは、あり得ない幻想だったわけです。スタート時の学力差は入学後ますます増幅されていったわけです。「何もしないでも大丈夫です」と言っていた学校側も、最後は「家庭の責任だ」と言って逃げてしまったのです。でこぼこの発達の違いは、幼児期の生活や経験の違いに起因するのだということをしっかり把握していれば、もっと早い段階から、幼児教育の改革に手がつけられていたのではないでしょうか。

40年以上にわたり、民間の教育機関に身を置いて、日本の幼児教育がどのように変わっていくのかを期待を込めて見てきました。しかし、枠組みの議論はあっても、教育内容や教育方法に関する議論が前面に出てきたことはほとんどありません。それは、幼児期の基礎教育の位置づけそのものができていないからなのではないかと思います。幼児教育の重要性が叫ばれても、何をやっていいのかわからないのが現状です。IT革命で技術革新が進み、社会の構造そのものが変わろうとしている時代の教育をどうデザインするのか。次代を担う子どもたちに、何をどう伝え、どんな能力を身につけさせたらよいのか・・・こうした議論があっても、それが実践と結びつかないのです。実践を大事にし、理論化する努力をしてこなかった現場の責任は大きいと思いますが、一方で、ひとつひとつの実践を大事にし、授業を通して子どもの認識能力・学力がどのように形成されていくのかを調査し、その分析を積み重ねることをしてこなかった幼児教育関係者の責任も大きいと思います。

私が30年以上かけて作り上げた「KUNOメソッド」は、1972年に発売された遠山啓氏の「歩きはじめの算数」の中で総括されている「原数学」「原言語」「原教科」といった考え方を具体化したものです。モンテッソーリの感覚教具や、ピアジェの理論を援用して実践した、知的障害を持つ子のために工夫された算数授業を、障害を持たない子どもたちの幼児教育に活用すべきだと訴え、のちに「算数のおもちゃ箱」を世に送った遠山啓氏の考え方が、幼児期の基礎教育を考える上で大変参考になりました。KUNOメソッドとして確立している年中・年長の授業は、遠山啓氏の提案を私なりに工夫し、子どもたちとの実践活動を通してメソッドとして具体化したものです。このメソッドは、次の3つの考え方を大切にしています。
- 小学校で学ぶ内容を、薄めて易しくして下におろすという発想はしない。先取り教育ではなく、あくまで「教科前基礎教育」として生活や遊びにテーマを求め、年齢にふさわしい教育内容を設定する
- 教育方法は、ものごとに働きかけ、試行錯誤させる経験を大切にするため、「事物教育」を中心とする
- 言語によって論理を育てることや、コミュニケーション能力を高めるために「対話教育」を重視し、一方的な教え込み教育は排除する
私はこうした考え方に沿って、一つの課題を、体を使った活動・手を使った事物操作・活動を想起させる独自テキストを使ったペーパートレーニングとして連動させ、1回の授業にその3つの活動を盛り込んだカリキュラムを作ってきました(3段階教育法)。幼児期における正しい知育の内容は、専門家が多方面から議論し、実践を通して作り上げていくべきです。私は、実践者として子どもの立場に身を置いて、これから盛んになるであろう「幼児教育」の変革を見守っていきたいと思います。
