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週刊こぐま通信
「知育を軽視する日本の幼児教育が危ない」

集団で学習することの意義と難しさ

第15号 2014/5/13(Tue)
こぐま会代表  久野 泰可
 こぐま会の年長クラスは、1クラス12名の子どもを2名の教師が受け持つ体制を基本として、日々の教育活動を行っています。クラス構成においては、特に意図的に集めているわけではありませんから、4月生まれの子もいれば、3月生まれの子もいます。4月2日生まれから翌年4月1日生まれの子を同じクラスで受け入れているため、1年近く離れている子が同じクラスに混在していることになります。幼児期における1年近くの月齢差は、活動の仕方や、ものごとの理解に影響していることは事実です。実際、発達診断テストの結果を分析しても、その点は裏付けられています。例えば、ピアジェが行った有名な「量の保存」の問題を行ってみると、正解率に月齢差が大きく影響していることがわかります。
ですから、普段の授業においても常に理解力には差が見られるし、ペーパー問題をやらせれば、すべての子が同じようにをもらえるわけではありません。こうした学習の到達度だけを問題にし、この理解力の差をどうするかをつきつめていけば、「一対一の個別指導が好ましい」という結論に至ることは容易に理解できます。民間の塾において、今盛んに取り入れられている「個別指導」は、学力差がある状態で集団授業をやっても効果が望めないからという理由があるからでしょう。では、すべての学習課題を個別授業でやるのが良いのでしょうか。多分多くの方の意見は、集団授業の良いところと、個別指導の良いところを組み合わせて行うのが好ましいという意見に落ち着くでしょう。集団授業の良さを生かしつつ、個別授業で理解の徹底を図るということだと思います。

では、集団授業の良さとは何でしょう。1クラス30名前後の子どもたちを集めて行う教育活動が、物理的意味での効率の良さだけでなく、どんな意味があるのかしっかり押さえておかないと、個別授業を良しとする人たちを納得させることはできません。そればかりか、幼児の場合、現在の1クラス30名前後の子どもたちを対象とした意図的な教育活動は不可能に近いと言われてしまうでしょう。地方の保育園でKUNOメソッドの授業を行おうとした時も、また、韓国の園長先生方に授業を見学してもらった後の意見交換の時にも、幼児の集団授業の難しさが議論されました。

私が毎日行っている授業は、12名前後の子どもたちを1クラスとしていますが、時に20名の子どもたちを1クラスとして行った経験もあります。その際には、2人のサブ教師をつけて行いましたが、さすがに30名となると、さまざまな問題が出てくることも予想できます。ですから、地方の保育園でも、また韓国の幼稚園でも、クラスを半分に分け、15名前後を1クラスとして意図的な「知育」を実践しています。少し工夫すれば、現在のクラス体制でも問題なく意図的な教育活動は可能です。
問題は、それぞれの理解度の違いをどう受け止め、授業の進め方をどう工夫するかです。また、そもそも集団で行うことにどのような意味があるのかということです。毎回ある意図を持って授業を行う場合、理解度の違う子どもが集まるクラスの授業進行をどう工夫するかは、常に悩むところです。見切り発車はいけないし、一人一人に意味のある教育活動を行うために、教師はどこで納得し、次の課題に移るタイミングをどう判断するかは、経験を積んでも難しいことに変わりはありません。

月齢差によって、ものごとへの取り組み方や理解の仕方に差が見られる幼児の場合、私は以下のように考え、困難な問題を抱えつつも集団授業を基本とすべきだと考え、毎日の実践活動の支えにしています。

  1. 皆で学習することに楽しみを感じることが、幼児の学習意欲につながる
  2. 学習の動機づけは集団活動の中でこそ見られる
  3. 子ども同士が学び合うチャンスをつくることの方が、大人から伝えるよりも理解度は高まる
  4. 意見を出し合うことの中で、「聞く力」「話す力」の基礎が身につく
  5. ペーパーワークの前に行う、体を使った活動、手を使った試行錯誤の中に、それぞれの子どもに意味のある経験が保証される。ペーパーワークにおいて間違えることがあっても、そのことでその日の授業が無意味であったことにはならない
  6. 事物教育こそ、理解度の違う子ども同士が学び合う良いチャンスである

「できた - できない」で全てを判断するのではなく、ものごとに働きかけ、子ども同士が意見を出し合う中で、正解にたどり着いていく、そのプロセスこそが、一人一人の子どもにとって原体験となり、深く印象づけられていくことによって、次の学習へのレディネスとなっていくのです。

日々の学習活動を別々なものと理解せず、ラセン形に積み上げて行く連続性を考えれば、1回1回の出来具合にそんなに深刻になる必要はありません。子どもの内にさまざまな経験が蓄積され、その繰り返しの中で、正解にたどり着く時は必ずやってくるのです。個別の教えより集団活動の中での経験の方が、どれだけ強く印象づけられるかは容易に想像できるでしょう。幼児期における集団学習には、多くの困難があることも事実です。しかしそのことが、意図的な教育活動を放棄する理由にはなりません。学習意図を正しく伝え、みんなで共有するためにも、集団での学習は必要なのです。教師からの指導よりも、子ども同士が学び合う・・・というより「まねる」行為がどれだけ教育的に意味のあることかは、次のような事例を経験すると良く理解できます。それは、描画の場面です。

幼児にとって、描画の教育的な意味はいろいろあります。絵を子どもの心の表現だと考えれば、1枚の絵から子どもの心の内を読み取ることも可能です。事実我々の経験でも、いやなことやつらいことがあると、描く絵が小さくなったり、塗り方が雑になることもわかっています。また絵を通して認識能力の発達度を見るとしたら、空間認識がどう身についているかを見ることもできます。例えば「楽しい食事」というテーマで食事の場面を描いてもらうと、そのことがよくわかります。違いが見られるのは、食卓を囲んでいる人物の位置関係です。

(1) 全員が、記念写真を撮るかのように、こちらを向いて食事をしている
(2) 人物は、向こう側と左右に配置するが、顔が3人とも上を向いた状態になるし、食卓の足は、四方に飛び出ている
(3) 2人を左右に位置し、向かい合って食事をしているように描く
(4) 3人で食卓を囲んでいる様子を、正面、左右と人物を配置し、一つの視点で食卓を囲んでいる様子が描ける

同じテーマで描かせても、これくらいの違いがみられます。しかし、(4)の描き方を教え込んでも意味はありません。それを受け止める空間認識が成熟していなかったら、応用する力には転化しません。では、どうするか。みんなで描いた絵を持ち寄って、展覧会と称して、友だちの描いた絵を見る機会を作るのです。一人一人の絵を評価する場合、不十分な点は一切言わないで、一人一人の良いところをみんなに伝えるのです。

「大きく描けていて良いね」「色の塗り方が、とても良いね」「みんなこちらを向いて描かないで、こちらを向いたり横を向いたり向こうを向いたり、みんなで楽しそうに食事している様子がわかるね」・・・こんな具合に、1枚1枚の絵を評価していくその場面こそが、最大の教育の場になるのです。こう描きなさい、そんな描き方ではだめ・・・ということより、みんなが描いた絵を見せ、それを1枚1枚評価することで、今度は自分もそのように描いてみようという気持ちにさせることが大事なのです。真似ることができるということは、それを受け入れる能力がすでに出来上がっている証拠に他なりません。友だちの絵を見ることによって違った視点に気づき、「学び」が深まるのです。こうした経験は、集団学習の中でたくさん見ることができます。教師からの一方的な知識の伝達ではなしえない、この「学び合い」こそが、幼児期における集団学習が意味を持つ、最大の理由なのです。

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