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週刊こぐま通信
「知育を軽視する日本の幼児教育が危ない」

幼児の表現力をどう育てるか

第40号 2015/5/19(Tue)
こぐま会代表  久野 泰可
 大学入試の在り方を変革しようという議論の中で、あらためて新しい学力観が注目されています。中央教育審議会の答申に見られる「生きる力」としての学力は、知識や技能だけでなく、思考力・判断力・表現力を重視しています。点数化するのが困難なそうした力を今まで以上に評価できるような試験にすべきだという考え方が、東大や京大がAO入試を実施する一つの根拠になっています。この中で、幼児の「思考力」「判断力」を育てる方法論については、私たちはある程度実践を通して確立してきましたが、最後の「表現力」をどう育てるかについては、今でも試行錯誤の連続です。

一口に「表現力」と言っても、いろいろな表現手段が考えられます。体を使った表現力、音を使った表現力、造形的な意味での表現力・・・昔から、「情操教育」の中心をなしていたものです。そうしたものも含めて、表現力の大切さをうたっているのだと思いますが、思考力・判断力・表現力と並んだ場合は、言語を通した表現力という意味合いが強いように思います。学力の根幹をなす「表現力」は、言語を通して思考を育てるという考え方に通じるものがあります。また、国語領域の4本柱、すなわち「聞く力」「話す力」「読む力」「書く力」の中では、「話す力」と「書く力」が重視されるということでしょうか。

幼児期の子どもたちの意図的な教育を考えた時、表現手段としての「言語」がどこまで身に付き、どれだけ使えるかということは、非常に大切なことだと思います。日本語を母国語とする子どもたちにとっては、言葉による表現力は意図的な教育を施さなくても、自然と身についていくように感じられますが、実際子どもたちの指導にあたっている現場では、この表現力の違いが、思考力や判断力の違いに通じる大事な要素であることは間違いありません。

試行錯誤して結論に到達した思考のプロセスを言葉で言い表すことができるかどうか。また、答えの根拠をしっかり言語化できるかどうかを見ると、同じ年齢の子どもにどうしてこんなに差が出てしまうのか・・・と考えさせられることも多くあります。身に付けた言葉の数が多いか少ないか、また性格によって、集団の中で積極的に自分を出せるかどうかというような問題も影響していますが、それが決定的な原因ではないように思います。論理を示す言葉(表現)は思考によって支えられ、感情を表す言葉(表現)は、人間関係の豊さによって支えられているような気がします。こんな単純な割り切り方はできませんが、少なくとも表現力を豊かにするためには、思考力を鍛えることと豊かな人間関係を築くことが大事であることは、経験的に理解できます。また、思考力によって表現力は高まり、その表現力の高まりによって、より一層思考力が深まる・・・おそらくそうした関係で成長していくのだと思います。表現力の違いを子どもの性格の違いにしてしまうと、表現力を高める教育の在り方が見えてきません。きちんとしたカリキュラムで、子どもたちの言語的な「表現力」を育てる方法を確立しなければなりません。私たちが実践している「対話教育」に、それを解決する鍵があるのではないかと期待し、今いろいろなプログラムを試みています。その前提として、子どもはどのように論理を身に付けていくか、そしてそれをどんな言葉で表現しようとしているか、同じ年齢の子どもたちにどんな差が生じているのか・・・そうした実態調査も本格的に行わなければならないと考えています。

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