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週刊こぐま通信
「知育を軽視する日本の幼児教育が危ない」

子どもの視点を大事にすること

第9号 2014/3/11(Tue)
こぐま会代表  久野 泰可
 教師と子どもとの関係は、「教える者と、教えられる者」との関係で在ることには変わりはありませんが、幼児を対象とした教育では、いったんその発想を捨てなければいけません。従来からある指導法では、幼児は何も知識がないのだから一方的な教え込みで良い、とされてきました。しかし、認識心理学の成果は、そうした方法の転換を要求しています。

実際、私が週9コマ担当している1回90分の授業では、そうした教え込みの教育法はできる限り排除し、子どもたちの積極的なものごとへのかかわりを促すような努力をしてきました。知識を教え込んだり、問題を解く方法を教えても、それは「考える力」を育てることにはならないことを自分自身の実践経験で痛感しているからです。ではどうしたらよいのでしょうか。

  1. 遊びや生活の場面を教室内で再現し、体を使った活動を通して授業意図を伝える。
    その上で、物事に触れ・働きかけ・試行錯誤する個別の課題に取り組ませる。
  2. 個別活動においては、授業の意図に合わせて教具・教材を工夫し、子どもが興味関心を持って学べる環境を整える。
  3. 教師の質問に対する子どもの反応を見ながら、その子がものごとをどのように考えているかを瞬時に判断し、適切な助言を与える。
  4. 子どもたちに答えの根拠を説明させる。自分の考えを言葉で表現させることを通して、どう理解しているのか、何が壁になってわからなくなっているのかを教師は判断する。仮に、間違った答えをしたとしても、途中までの考えを評価したり、間違った答えがなぜでてしまったのかを伝えてあげる。

教室での授業を進めるにあたって大事なことは、教える側の視点だけでなく、学ぶ側の視点を常に取り込みながら、カリキュラム作りをするということです。また、用意したカリキュラムをこなせばそれで良しとするのではなく、子どもの側に立った検証が必要です。「一体、今日の授業で子どもたちに何が身についたのか」を、教師自らが自分自身に問いかけていく姿勢が大事です。つまり、大人の側の視点だけでなく、学ぶ子どもの側の視点に立ったカリキュラム作りが必要であるということです。小学校における学習計画でもそうですし、幼稚園や保育園で見られるカリキュラムも、どちらかというと教師側の想いが先行し、子どもに何かを教えてあげようという姿勢が強くなればなるほど、学習者である子どもの視点が見えなくなってしまいます。ですから、幼児期の基礎教育では、子どもの側に立った指導内容の検証が常に必要です。指導者側の想いだけでは、子どもの「考える力」は身につかないということを、知っておかなければなりません。

「生活単元学習」か、それとも「系統学習」かという議論は、教育の世界では昔から続いています。それぞれに長所・短所がありますから、年齢を考えて、二者択一ではなく柔軟に考えればよいと思います。特に幼児期の基礎教育においては、「生活単元学習」的発想は強くならざるを得ません。なぜなら、すぐに抽象思考ができる年齢ではないからです。
具体的な経験に即してものごとを考えていく時期に、そうしたものと切り離して抽象的な思考を求める学習を先行させても身につきません。その意味で、遊びや生活経験に即した生活単元的な学習が大事なのですが、ここに一つ落とし穴があります。それは、教える側の想いや意図が強ければ強いほど、経験や活動の捉え方が分析的になりすぎて、あれも学ばせたい、これも学ばせたいとたくさんの意図を盛り込んでしまうのです。ですから、「数の学習もできます」「図形の学習もできます」「ことばの学習もできます」「常識問題もあります」・・・というように、一つの活動の中に、あれもこれも・・・と盛りだくさんになってしまうのです。これでは、学習する側からみると「経験」として蓄積出来ても、それが「学び」になっていかないのです。子どもの活動をあまりにも分析的に見てしまうと、そのような結果になってしまい、結局何が身についたのかがあいまいなまま、教える側の意図だけが一人歩きしてしまうのです。

長い実践経験の上でたどりついた結論は、「体を使った活動」「手を使った個別試行錯誤」「抽象思考を促すペーパーワーク」・・・この3つを、同じテーマで関連付けて学習することが、子どもの思考力を育てる一番の指導法だということです。そう考えてみると、日本の遊び中心の保育にも意味があることが見えてきますが、同時にそれだけではいけないということもまた明確になってくるのです。

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