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週刊こぐま通信
「室長のコラム」

幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿

第638号 2018年8月17日(金)
こぐま会代表  久野 泰可

 2017年3月31日に、幼稚園教育要領、保育所保育指針、幼保連携型子ども園教育・保育要領が同時改訂されました。その改訂の大きな柱の一つとして、幼児教育と小学校以上の教育を貫く柱を明確にし、特に、小学校で行う学習との繋がりを意識した保育・教育内容を実践することを現場に要請しています。この中で「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」を掲げています。その10の姿とは、

  1. 健康な心と体
  2. 自立心
  3. 協同性
  4. 道徳性・規範意識の芽生え
  5. 社会生活との関わり
  6. 思考力の芽生え
  7. 自然との関わり・生命尊重
  8. 数量や図形,標識や文字などへの関心・感覚
  9. 言葉による伝え合い
  10. 豊かな感性と表現
(幼稚園教育要領 第1章 総則 第2より抜粋)

「姿」と表現したところには、何らかの意味を持たせているのでしょうが、この10の姿をもってしても、いま現場の人間が一番明らかにしてほしい、幼児教育の明確な目標が示されたとは到底思えません。相も変わらず、抽象的な表現で何か分かったような気にさせてしまうこれまでの指針となんら変わりません。「なぜ、~ができるようになる」といった表現を嫌うのか。おそらく、この方針書を作成した研究者・有識者の中には、幼児教育を学校化してはならないという強い意見を持つ人々がいて、「姿」という曖昧な言葉で忖度したのではないかと思わざるをえません。全体的な指導計画と、短期的な指導計画の2つが必要なのは当然なことですが、いま必要なのは、日々の活動に必要な短期的な指導計画のはずです。そこが明確になっていないからこそ、「姿」などという曖昧な表現になってしまっているのでしょう。ヨーロッパはもちろん、すでに東南アジアの国々でも実行されている「幼児教育の学校化」がなぜ日本では採用されないのか、その理由が明確ではありません。

知的教育をテーマにしてこなかった日本の幼児教育の歴史には、相応の理由があるはずです。もし、その理由が「幼児教育の学校化が、幼児教育の本来の姿をゆがめた」というものだとすれば、それは内容の議論のない間違った総括だったのではないかと思います。つまり、学校化が教師主導であり、子どもたちの自主性を育てることに相反すると考えたのなら、それは、授業の内容や方法を議論しないで形式だけを見ての総括だったに過ぎません。小学校と同じ授業形式で行えば、当然幼児の発達に見合わないものだと思いますが、事物教育や対話教育を重視した学習であれば、子どもたちの自主性を損なうことはありません。幼児教育が、小学校のような到達目標主義を毛嫌いし、目標が極めて具体性を欠いた「心情主義」になってしまっているのは、方針書を書き上げる研究者や役人が、現場を何も知らないというところに最大の原因があるように思います。

一方で、小一プロブレムや学力テスト問題という切実な課題を抱えている小学校側からは、小一のスタートまでにきちんとすべきことを明確に伝えるべきです。学力テストの結果を通して、小学校の先生の指導力を問うという発想は良く分かります。確かに、指導力が相当落ちていることは事実です。しかし、テストの結果をもって先生の指導力を問うという解決法には、異論もあるでしょう。そうではなく、学力テストの結果を通して、幼児期の教育のあり方に眼を向けるべきです。幼児期の教育のあり方が、小学校に入ってからの学力の土台になっているのです。そう考えれば、「10の姿」などという曖昧な目標では駄目だという結論になるでしょう。OECDに加盟している主要国の中で、日本の幼児教育が一番遅れているという事実は深刻です。その原因を取り除くためにも、国の政策を動かす人間たちの頭の切り替えが必要です。それがなされない限り、変革はまず無理でしょう。

子どもの考える力を日々の授業活動の中で模索し、子どもの思考過程をいかに言語化させるかについて悪戦苦闘しているわれわれから見れば、全く曖昧な心情主義とも言うべき方針書では、現場は何も変わらないと思います。一方で、民間の幼稚園で行われている「学校化」の内容は、私たちの考える内容とは大きく異なり、それこそ最悪な内容です。そこでは、小学校で学ぶことを易しくして下ろし、早く学習させているだけです。こんな学校化は必要ありません。そんな内容でやるから、「意図的な知育」や「教師主体の授業」では駄目だといわれるのです。掛け声だけが大きく、具体的な内容論議のない日本の「幼児教育改革」は、一体どこに行くのでしょうか。

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