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週刊こぐま通信
「室長のコラム」

非認知能力の重要性が誤解されている

第566号 2017年2月17日(金)
こぐま会代表  久野 泰可

 ジェームズ・ヘックマン氏の「幼児教育の経済学」で話題になった「非認知能力」に関し、さまざまな議論が行われています。また、2020年の大学入試改革や、それにつながる新指導要領の「アクティブ・ラーニング」の導入などに関し、さまざまな教育問題が新聞や雑誌をにぎわしています。そうした議論の根底にあるものが、「学力中心の教育は、もう時代遅れ」という主張です。しかし、本当に学力中心の教育は時代遅れなのでしょうか。そうした議論の行きつく先が、「習い事で非認知能力を伸ばせ」では、余りにも薄っぺらな結論であり、「勉強させるより習い事をさせた方が、生きる力が身に付く」では、海外から尊敬されている日本の教育はいったいどこに行ってしまうのでしょう。

以前このコラムにも書きましたが、非認知能力の重要性は、決して数値化される学力の対極にあるものではありません。今問題なのは、従来の「知識の詰め込み」教育では応用する力が身に付かず、実社会の問題解決には有効な力にならないということです。知識偏重の日本の教育の弊害は、その知識を使い、応用して問題を解決していく力が弱いということで、その力を小学校の学習から育てようと「アクティブ・ラーニング」の重要性が指摘されているのです。それは、知識の獲得の仕方に大変大きな問題があり、従来のような黒板と教科書とノートがあって、教師が知識の伝達をするのが「教育」だという概念を変革しなければならないということのはずです。知識をどのように生かすかは、知識をどのように獲得したかによって決まります。アクティブ・ラーニングを推奨する理由はそこにあり、その教育法を、今の学校の教師ができるかどうかを不安視しているのです。

しかし、この問題はそんなに複雑なことではありません。極めて単純なことです。つまり、日本の教育には、自ら物事に働きかけて知識を獲得する教育法が根付いていないということであり、学習で得た知識を、議論して深めるという教育になじんでいないということでもあります。応用できないのは、その知識をどのように獲得したかの証でもあり、幼児期の教育の場合、私たちが実践しているような、事物教育・対話を取り入れた教育になっていないということです。初めての学習をペーパーから始めるような指導では、考える力・応用する力が身に付くはずはありません。

知識を獲得するため学習の動機づけとして、目標を持つ・他者と関わりを持つ・頑張ろうという意欲を持つ・他者と協力して物事の解決にあたる・・・そこに学ぶ喜びが生まれれば、身に付いた知識はさまざまな場面で生きた力になっていくはずです。知識量で図る学力ではなく、その知識を使って問題をどう解決するのか・・・そこに「非認知能力」が意味を持つのです。学力と直接かかわりのない、「おけいこ事」をたくさんやったからといって「生きる力」「食える力」が育つわけではありません。日本人の教育議論には、あれかこれかというように二者択一になる場合が多いものですが、問題点の整理はできても、実際の場面ではそんな二者択一が有効になることはまずありません。

今盛んに行われている「非認知能力」の議論は、従来の学力観を変える契機としてとても大事ですが、学力より大切なものがあるという発想では、何も解決しないでしょう。やはり、人間の将来を考えれば「学力」は大事です。しかしその学力観は、これまでのような知識量で図るものではありません。ロボットが人間の職業を半分以上奪っていく時代になっても、人間の判断力・想像力・新しい価値を生み出す能力は、今まで以上に重要になってきます。そのとき必要なものは、自立した思考・判断力・行動力です。それを支えるエンジン部分が、「非認知能力」のはずです。学力を高め、自立した行動を支えるものとしての「非認知能力」でなければ、今直面している問題の解決にはなりません。つまり、学習する過程に、非認知能力を高める要素を取り入れなければ、問題の解決にはならないということです。これまでの「教え - 教えられる」関係を変革し、意欲を高める教育を実践するために、「集団の力」をどう活用するかがポイントです。教室に集まり対面での教育を実践する意味を、もう一度考えるべきです。

幼児期の遊びの教育的意味を踏まえつつ、しかし遊び保育だけでは小学校の教科学習の基礎をつくることはできないと、幼児期の基礎教育をどう構築するかが議論されている今、何をいまさら「遊びが一番大事だ」と言うのでしょうか。マスコミにあおられて、週刊誌的な発想の議論がまかり通っていくのを見ていると、もっと子どもの現実・幼児教育の現実を知っていただきたいと思います。

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