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週刊こぐま通信
「室長のコラム」

「ゆとり教育」転換がなぜ「言葉の力」か

第46号 2006/02/16(Thu)
こぐま会代表  久野 泰可

 2月9日付の朝日新聞は「次期学習指導要領、『言葉の力』を柱に 全面改訂へ文科省原案」と題して、次の学習指導要領の基本的な考え方に「言葉の力」をすえたことを報告しています。学力低下を招いたと指摘を受けた現行指導要領の柱だった「ゆとり教育」は、事実上転換されることになると報じられています。

 学習内容の3割削減や学校完全週5日制の下での授業時間数削減などで目指した「ゆとり教育」が何の総括もないまま、学力の低下を招いたという理由だけで方針転換されてしまうような教育行政とはいったい何なのでしょうか。私は教育の現場に立つ人間として、「ゆとり教育」の導入時にも疑問を投げかけた一人であるし、今度の「言葉の力」も方針はともかく、その実行に大変疑問を持つものの一人です。

 つまり、原案にある「言葉は、確かな学力を形成するための基盤。他者を理解し、自分を表現し、社会と対話するための手段で、知的活動や感性・情緒の基盤となる」としていますが、そんなにわかりきったことを、何でいまさら声を大にして言わなくてはならないのか。そしてまた、それがなぜ「ゆとり教育」にとって代わるものになるのか。

 そもそも、学習内容を削減したり、週5日制にすることを「ゆとり教育」としたことが間違っていたのです。ゆとり教育で目指した「生きる力をはぐくむ」教育が、学習内容を簡単にし、先送りすればできると考えたところが誤りなのです。「言葉の力」で目指そうとしている論理的思考力の大切さは、現場で子ども達に接し、教科指導に悪戦苦闘してきた現場教師にはもうずっと昔からわかっていたことです。そうした、現場教師の声を大事にしようとせず、学習内容を簡単にし「総合学習」の中身の検討も十分せずに、「ゆとり教育」を「詰め込み教育」を改める救世主とした責任を誰が取るのでしょうか。

 私は、ゆとり教育とは確かな学力を身につけることを避けてはありえないし、確かな学力とは、論理的思考力の育成であると言い続け、文科省の方針に反対してきました。「言葉の力」に関しては、例えば中学生の国語学習において、現場の先生たちが論理を育てるための試みを十年以上続けてきているのです。もちろん私たちが携わる幼児教育においても、論理的思考力を育てる重要な柱に『言語化』を盛り込み、さまざまな実践をしてきました。

 それだけ重要な「言葉の力」が真正面にすわった教育がなされるのは、大変喜ばしいことですが、これまでの教育行政のあり方を見ると、うわべだけの改革に終わり、また新たな矛盾を抱え込むことになりそうです。今教育行政に必要なのは、もっと現場教師の自由な教育活動を認めることだと思います。夢や希望を持って教育現場に赴任しても、年の経過とともに、心を病んでやめていく現場教師が多いのはなぜでしょうか。そこを解決するような方策を考えなければ、どんなに学習指導要領が新しくなっても、「学校の再生」や「学力の向上」は望めません。

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